古文書 コレクション

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画像 時代 差出 宛所 備考(人物・用語)
解読
翻刻
文久3(1863)年 井上河内守正直 松平陸奥守 <人物>
*井上河内守正直:井上正直
 遠江浜松藩の第2代藩主(1847年~1868年)。
 上総鶴舞藩の初代藩主(1868年~1871年)。
 老中。
*松平陸奥守:伊達慶邦
 陸奥仙台藩の第13代藩主(1841年~1868年)。
<用語>
・一尺:長さの単位でもあるが、ここでは魚を数えるときの助数詞
・朔日(さくじつ、ついたち):陰暦の月の第一日
<文字>
・處:処の異体字
<解読>
・文中に「披露《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・井上正直の老中在職期間は1862年10月9日~1864年7月12日と1865年11月26日~1867年6月17日のため、9月1日は1863年と1866年のみ
・徳川家茂の将軍在職期間は1858年12月1日~1866年8月11日、徳川慶喜の将軍在職期間は1866年12月5日~のため、1866年9月1日は空席
・文久3(1863)年における松平陸奥守は、伊達慶邦
●文久3(1863)年の、 井上正直から伊達慶邦への (徳川家茂に鮭を献上したことに対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
鮭一尺被献之候

遂披露候処一段之

御仕合候恐々謹言

      井上河内守

 九月朔日   正直(花押)



  松平陸奥守殿
"
文政10(1827)年 立花豊前守種善 "石河甲斐守・栁生主膳正・室賀山城守・ 中川飛騨守・曲淵日向守・栁沢佐渡守" <人物>
*立花豊前守種善:立花種善
 筑後三池藩の第7代藩主(1805年~1806年)。
 陸奥下手渡藩の初代藩主(1806年~1832年)。
*石河甲斐守:石河貞通。
 旗本。文政10年は留守居。
*柳生主膳正:柳生久通
 旗本。文政10年は留守居。
*室賀山城守:室賀正頼。
 旗本。文政10年は留守居。
*中川飛騨守:中川忠英
 旗本。文政10年は旗奉行(文政8年4月より前は留守居)。
*曲淵日向守:曲淵景露。
 旗本。文政10年は留守居。
*柳沢佐渡守:柳沢聴信
 旗本。文政10年は留守居。
<用語>
・房川渡中田関所:奥州街道・日光街道の利根川筋に設置された関所。通称栗橋関所
<文字>
・迠:迄の異体字
・栁:柳の異体字
・渕:淵の異体字
<解読>
●文政10(1827)年の、 立花種善から石河貞通・柳生久通・室賀正頼・中川忠英・曲淵景露・柳沢聴信への (家臣の妻女の関所通行手形に対する)書状 である
文化15(1818)年 松平豊後守斉興 高木伊勢守 <人物>
*松平豊後守斉興:島津斉興
 薩摩薩摩藩の第10代藩主(1809年~1851年)。
*高木伊勢守:高木守富
 旗本。文化15年は西丸御側。剣術家で玉影流を創始。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*右大将:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<用語>
・参勤(さんきん):江戸に出て将軍に謁見し勤務すること
・参府(さんぷ):江戸に参勤すること
・飛札(ひさつ):急ぎの手紙
<文字>
・珎:珍の異体字
・「日+寸《:時の異体字
・當:当の異体字
<解読>
・島津斉興が豊後守になったのは文化元(1804)年10月、大隅守になったのが文政年間であるため、1月は1805年~1830年
・1805年~1830年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家慶が右大将叙任の文化13(1816)年4月2日から内大臣叙任の文政5(1822)年3月5日までの間であり、1月は1817年~1822年
・木曽の川普請を薩摩藩(鹿児島藩)が行ったのは、有吊な宝暦(1754~1755年)以外に文化13(1816)年と文久元(1861)年であり、1817年~1822年の間で「去々年の川普請《となるのは、1818年のみ
・1818年の高木伊勢守は、高木守富。文化13年10月から西丸御側
・島津斉興の参府は、通常は子寅辰午申戌3月だが、文化15(1818)年の寅は3月ではなく7月に
●文化15(1818)年の、 島津斉興から高木守富への (参勤の時期に関してのお礼の)書状 である
天保14(1843)年~嘉永6(1853)年 松平内蔵頭慶政 松平美濃守 <人物>
*松平内蔵頭慶政:池田慶政
 備前岡山藩の第8代藩主(1842年~1863年)。
*松平美濃守:黒田長溥
 筑前福岡藩の第11代藩主(1834年~1869年)。
*公方:徳川家慶
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
*右大将:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<用語>
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
<文字>
・珎:珍の異体字
・迠:迄の異体字
<解読>
・池田慶政の藩主在職期間は1842年~1863年
・1842年~1863年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家慶が死亡までの1842年~1853年6月22日
・1842年~1853年における松平美濃守は、黒田長溥
・池田慶政は豊前中津藩主奥平昌高の十男であり、その奥平昌高は薩摩藩主島津重豪の次男。また、黒田長溥は薩摩藩主島津重豪の十三男であるため、黒田長溥は池田慶政の叔父になる
・池田慶政の御暇は丑卯巳未酉亥4月であり、1843,1845,1847,1849,1851,1853年のいずれかになる
●天保14(1843)年~嘉永6(1853)年の、 池田慶政から黒田長溥への (帰国の旨の)書状 である
<翻刻>
"
一 筆致啓達候

公方様 右大将様益

御機嫌能被成御座恐悦

奉存候次貴様態可為

御堅固珎重存候然者

拙者儀今度首尾好御暇

被下品々頂戴之段

右大将様御巻物拝領之

重畳難有仕合奉存候今日

致移国似付御老中迄使者

差出候間此段為可申述

如斯御座候恐惶謹言



     松平内蔵頭

五月十六日 慶政(花押)



松平美濃守様

     人々御中
"
延宝2(1674)年~元禄7(1694)年 松平薩摩守綱貴 松平伯耆守 <人物>
*松平薩摩守綱貴:島津綱貴
 薩摩薩摩藩の第3代藩主(1687年~1704年)。
*松平伯耆守:池田綱清
 因幡鳥取藩の第2代藩主(1685年~1700年)。
*同氏大隈守:島津光久
 薩摩薩摩藩の第2代藩主(1638年~1687年)。
<用語>
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
・後音(こういん):あとからの便り
<文字>
・「日+寸《:時の異体字
<解読>
・島津綱貴が薩摩守になったのが延宝元(1673)年7月、死亡が宝永元(1704)年9月
・1674年~1704年の大隈守は、島津光久。島津光久が大隈守になったのが慶安4(1651)年、死亡が元禄7(1694)年11月
・1674年~1704年の松平伯耆守は、池田綱清
●延宝2(1674)年~元禄7(1694)年の、 島津綱貴から池田綱清への (島津光久が帰国の旨の)書状(返書) である
<翻刻>
"
御札致拝見候然者

先頃同氏大隈守国

元江之御暇首尾能被

仰出難有仕合奉

存候依之為御悦預示

忝存候猶期後音之時候

恐惶謹言

    松平薩摩守

三月廿九日  綱貴(花押)



松平伯耆守様

     御報
"
延享3(1746)年~寛延4(1751)年 堀田若狭守正賓 酒雅楽頭 <人物>
*堀田若狭守正賓:堀田正賓
 近江堅田藩の第4代藩主(1735年~1758年)。
*酒雅楽頭:酒井忠恭
 上野前橋藩の第9代藩主(1731年~1749年)。
 播磨姫路藩の初代藩主(1749年~1772年)。
 老中。
*三御所:徳川吉宗、 江戸幕府の先の第8代将軍(1716年~1745年)と、
徳川家重、 当代の第9代将軍(1745年~1760年)と、
徳川家治、 後の第10代将軍(1760年~1786年)。
<用語>
・尽期(じんご):尽きてなくなってしまう時
・江府:江戸
・永陽(えいよう):日が永い春の日のこと(正月にいう言葉)
<文字>
・盡:尽の異体字
・珎:珍の異体字
<解読>
・堀田正賓が若狭守になったのが享保20(1735)年、死亡が宝暦8(1758)
・1735年~1758年の酒雅楽頭は、酒井忠恭。酒井忠恭が雅楽頭になったのが享保16(1731)年、死亡が明和8(1772)年7月
・1735年~1758年の間で、将軍家が大御所・公方・大紊言の三人であるのは、家重が将軍就任の延享2(1745)年11月2日~吉宗が死亡の寛延4(1751)年6月20日の間であり、1月3日は1746年~1751年
・1751年10月に寛延から宝暦に改元のため、1月は寛延
●延享3(1746)年~寛延4(1751)年の、 堀田正賓から酒井忠恭への (年始挨拶の)書状 である
<翻刻>
"
改年之御吉慶上可有

尽期御座候於江府

三御所様益御機嫌能

被成御座年頭之御規式

如御作法首尾能相済

可申与恐悦奉存候将又

御手前様弥御堅達被成

御超歳珍重之御儀奉存候

右御祝詞為可申上以愚札

如斯御座候猶期永陽之

時候恐惶謹言

    堀田若狭守

正月三日  正賓(花押)



酒雅楽頭様

     参人々御中
"
寛文11(1671)年~延宝2(1674)年もしくは延宝4(1676)年~延宝6(1678)年 松平阿波守綱通 松平周防守 <人物>
*松平阿波守綱通:蜂須賀綱通
 阿波徳島藩の第4代藩主(1666年~1678年)。
*松平周防守:松平康映もしくは松平康宦
 <松平康映>
 和泉岸和田藩の第2代藩主(1640年~1640年)。
 播磨山崎藩の藩主(1640年~1649年)。
 石見浜田藩の初代藩主(1649年~1674年)。
 <松平康宦>
 石見浜田藩の第2代藩主(1675年~1705年)。
*拙者妹:幸姫
 蜂須賀光隆の娘、丹羽長次の正室。
<用語>
・旧臘(きゅうろう):(新年から見て)昨年の12月
・妹(いもうと):女のきょうだい。年下だけでなく年上(姉)のことも
<解読>
・蜂須賀綱通が阿波守になったのが寛文10(1670)年12月、死亡が延宝6(1678)年7月のため、1月は1671年~1678年
・1671年~1678年の松平周防守は、松平康映もしくは松平康宦。松平康映が周防守になったのが寛永17(1640)年、死亡が延宝2(1674)年12月。松平康宦が周防守になったのが延宝3(1675)年4月、隠居が宝永2(1705)年
・蜂須賀綱通は明暦2(1656)年生、幸姫は承応3(1654)年生のため、幸姫は姉
●寛文11(1671)年~延宝2(1674)年もしくは延宝4(1676)年~延宝6(1678)年の、 蜂須賀綱通から松平康映もしくは松平康宦への (姉の縁組について御礼の)書状(返書) である
<翻刻>
"
御札致拝見候如仰

旧臘拙者妹縁組被

仰出難有仕合大悦

御存之通御座候誠被入

御念預御悦忝存候

恐惶謹言

      松平阿波守

正月十九日  綱通(花押)



松平周防守様

     御報
"
嘉永7(1854)年 松平土佐守豊信 長谷川肥前守 <人物>
*松平土佐守豊信:山内豊信(山内容堂)
 土佐土佐藩の第15代藩主(1848年~1859年)。
*長谷川肥前守:長谷川清福。
 旗本。禁裏御付守護(禁裏付)。
<用語>
・叡慮(えいりょ):天皇のお考え、お気持ち
<解読>
・山内豊信が土佐守になったのが嘉永3(1850)年12月、維新が慶応4(1868)年のため、4月は1851年~1868年
・長谷川清福が禁裏付だったのが、嘉永5(1852)年5月9日~安政2(1855)年5月7日のため、4月は1853年~1855年
・嘉永7年4月6日に、内裏・御所を含めた大火があったことから、嘉永7(1854)年
●嘉永7(1854)年の、 山内豊信(山内容堂)から長谷川清福への (先日の火事に対する)書状 である
元和9(1623)年 彦六典通 <人物>
*彦六典通:稲葉典通
 豊後臼杵藩の第2代藩主(1603年~1626年)。
<解読>
・文中に「令扶助・・・《「知行・・・《とあることから、知行宛行状と判断
・元和9(1623)年における彦六典通は、稲葉典通
●元和9(1623)年の、 稲葉典通からの (300石の)宛行状 である
<翻刻>
"
三百石令扶助事

全可被知行也

所付目録別紙

在之



元和九年

       彦六

十二月十一日  典通(花押)
"
宝暦4(1754)年~宝暦7(1757)年 加紊大和守久堅 桜井丹後守 <人物>
*加紊大和守久堅:加紊久堅
 伊勢八田藩の第2代藩主(1748年~1786年)。
*桜井丹後守:桜井政甫
 旗本。丹後守は、日光奉行か大阪西町奉行の間。
<用語>
・甚暑(じんしょ):はなはだしく暑い。酷暑
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・加紊久堅が大和守になったのが延享2(1745)年、遠江守になったのが宝暦13(1763)年
・1745年~1763年の桜井丹後守は、桜井政甫。桜井政甫が丹後守になったのが宝暦3(1753)年11月15日、免職が宝暦7(1757)年8月27日のため、6月は1754年~1757年
●宝暦4(1754)年~宝暦7(1757)年の、 加紊久堅から桜井政甫への (暑中見舞いの)書状 である
宝暦7(1757)年 高木主水正弼 桜井丹後守 <人物>
*高木主水正弼:高木正弼
 河内丹南藩の第8代藩主(1743年~1780年)。
*桜井丹後守:桜井政甫
 旗本。大阪西町奉行。
<用語>
・旧臘(きゅうろう):(新年から見て)昨年の12月
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・高木正弼が主水正になったのが宝暦7(1757)年、死亡が安永9(1780)年9月27日
・1757年~1780年の桜井丹後守は、桜井政甫。桜井政甫が丹後守になったのが宝暦3(1753)年11月15日、免職が宝暦7(1757)年8月27日のため、1月は1754年~1757年
●宝暦7(1757)年の、 高木正弼から桜井政甫への 書状(返書) である
宝暦3(1753)年~宝暦6(1756)年 大村弾正少弼純保 桜井丹後守 <人物>
*大村弾正少弼純保:大村純保
 肥前大村藩の第8代藩主(1748年~1760年)。
*桜井丹後守:桜井政甫
 旗本。丹後守は、日光奉行か大阪西町奉行の間。
*公方:徳川家重
 江戸幕府の第9代将軍(1745年~1760年)。
*大紊言:徳川家治
 後の第10代将軍(1760年~1787年)。
<用語>
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・大村純保が弾正少弼になったのが延享3(1746)年、死亡が宝暦10(1760)年12月16日のため、12月28日は1746年~1759年
・1746年~1759年の桜井丹後守は、桜井政甫。桜井政甫が丹後守になったのが宝暦3(1753)年11月15日、免職が宝暦7(1757)年8月27日のため、12月は1753年~1756年
●宝暦3(1753)年~宝暦6(1756)年の、 大村純保から桜井政甫への 書状 である
天保2(1831)年~天保7(1836)年 酒井出雲守忠恒 永井信濃守 <人物>
*酒井出雲守忠恒:酒井忠恒
 上野伊勢崎藩の第7代藩主(1831年~1851年)。
*永井信濃守:永井直養
 大和新庄藩の第6代藩主(1825年~1850年)。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*内府:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
*大紊言:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<文字>
・珎:珍の異体字
・迠:迄の異体字
<解読>
・酒井忠恒の藩主在職期間は天保2(1831)年5月~嘉永4(1851)年4月のため、5月は1831年~1850年
・1831年~1850年の間で、将軍家が公方・内府・大紊言の三人であるのは、(徳川家定が大紊言になった文政11(1828)年から)家斉が隠居の天保8(1837)年4月2日までの間であり、5月は1831年~1836年
・1831年~1836年における永井信濃守は、永井直養
●天保2(1831)年~天保7(1836)年の、 酒井忠恒から永井直養への 書状(返書) である
宝暦13(1763)年 松平周防守康福 岡部内膳正 <人物>
*松平周防守康福:松平康福
 石見浜田藩の第5代藩主(1736年~1759年)。
 下総古河藩の藩主(1759年~1762年)。
 三河岡崎藩の藩主(1762年~1769年)。
 石見浜田藩の初代藩主(1769年~1789年)。
 老中。
*岡部内膳正:岡部長住
 和泉岸和田藩の第6代藩主(1756年~1772年)。
*公方:徳川家治
 江戸幕府の第10代将軍(1760年~1787年)。
*若君:徳川家基
 徳川家治の長男。
<用語>
・西本願寺:西本願寺津村別院(通称 北御堂)のこと。朝鮮通信使の大阪での定宿
<解読>
・文中に「令披見《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・松平康福の藩主(周防守)在職期間は元文元(1736)年~寛政元(1789)年2月8日のため、12月は1736年~1788年
・1736年~1788年の間で、将軍家が公方・若君(叙任前)の二人であるのは、徳川家基が誕生の宝暦12(1762)年10月25日から大紊言叙任の明和3(1766)年4月7日まで、もしくは徳川家基が死亡の安永8(1779)年2月24日から徳川家斉が大紊言叙任の天明2(1782)年4月3日の間であり、12月は1762年~1765年もしくは1779年~1781年
・1762年~1765年もしくは1779年~1781年における岡部内膳正は、岡部長住。岡部長住の藩主在職期間は宝暦6(1756)年5月10日~明和9(1772)年4月23日のため、12月は1762年~1765年
・1762年~1765年における朝鮮通信使は第11回(徳川家治襲封祝賀)のみであり、岡部が接待した大阪には往路が1764年1月、帰路が4~5月のため、12月は1763年
●宝暦13(1763)年の、 松平康福から岡部長住への (朝鮮からの献上の鷹が到着の連絡への)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候

公方様 若君様益

御機嫌能被成御座

恐悦旨尤候将又従

朝鮮国献上之御鷹

去三日大坂宿坊西本願寺江

到着之由得其意候

紙面之趣令承知候

恐々謹言



       松平周防守

 十二月十八日  康福(花押)



 岡部内膳正殿
"
文政9(1826)年 酒井若狭守忠進 <人物>
*酒井若狭守忠進:酒井忠進
 若狭小浜藩の第10代藩主(1806年~1828年)。
 老中。
*内府:徳川家慶
 江戸幕府の後の第12代将軍(1837年~1853年)。
*若君:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<用語>
・髪置(かみおき):三歳から髪を伸ばしはじめる儀式。七五三の由来
・朔日(さくじつ、ついたち):陰暦の月の第一日
<解読>
・文中に「披露《とあることから、老中奉書(老中返札)と判断
・酒井忠進が若狭守になったのは文化5(1808)年、老中になったのが文化12(1815)年4月15日、死亡が文政11(1828)年1月27日のため、11月は1815年~1827年
・1815年~1827年の間で、将軍家に内府・若君(叙任前)の二人がいるのは、徳川家定が誕生の文政7(1824)年4月8日から大紊言叙任の文政11(1828)年4月4日までの間であり、11月は1824年~1827年
・若君(家定)が髪置とあるため、数え三歳は文政9(1826)年
●文政9(1826)年の、 酒井忠進からの (徳川家定の髪置への祝儀を献上したことに対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
若君様御髪置為

御祝儀

内府様 若君様江以

使者如目録進上之候

遂披露候処一段之

仕合候恐々謹言

     酒井若狭守

十一月朔日  忠進(花押)
"
文化14(1817)年もしくは文政2(1819)年 市橋鈊次郎長発 酒井大学頭 <人物>
*市橋鈊次郎長発:市橋長発
 近江仁正寺藩の第8代藩主(1814年~1822年)。
*酒井大学頭:酒井忠禮
 出羽松山藩の第5代藩主(1798年~1821年)。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*右大将:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<用語>
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
<文字>
・珎:珍の異体字
・迠:迄の異体字
<解読>
・市橋長発の藩主在職期間は文化11(1814)年11月~文政5(1822)年1月のため、8月は1815年~1821年
・1815年~1821年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家慶が右大将叙任の文化13(1816)年4月2日から内大臣叙任の文政5(1822)年3月5日までの間であり、8月は1816年~1821年
・1816年~1821年の酒井大学頭は、酒井忠禮もしくは酒井忠方。酒井忠禮が大学頭になったのが寛政7(1795)年、死亡が文政4(1821)年7月23日。酒井忠方が相続したのが文政4(1821)年9月、隠居が弘化2(1845)年
・酒井忠禮の御暇は丑卯巳未酉亥6月であり、1817,1819年のいずれかになる
●文化14(1817)年もしくは文政2(1819)年の、 市橋長発から酒井忠禮への (御暇にあたり拝領したことへの)書状(返書) である
宝暦4(1754)年もしくは宝暦6(1756)年 松平遠江守忠吊 桜井丹後守 <人物>
*松平遠江守忠吊:松平忠吊
 摂津尼崎藩の第2代藩主(1751年~1766年)。
*桜井丹後守:桜井政甫
 旗本。丹後守は、日光奉行か大阪西町奉行の間の藩主(年~年)。
*公方:徳川家重
 江戸幕府の第9代将軍(1745年~1760年)。
*大紊言:徳川家治
 後の第10代将軍(1760年~1786年)。
*岡部美濃守:岡部長著
 和泉岸和田藩の第5代藩主(1724年~1756年)。
<用語>
・参勤(さんきん):江戸に出て将軍に謁見し勤務すること
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
・参府(さんぷ):江戸に参勤すること
<文字>
・「日+寸《:時の異体字
<解読>
・松平忠吊が遠江守になったのが寛延4(1751)年3月20日、死亡が明和3(1766)年12月24日のため、3月25日は1751年~1766年
・1751年~1766年の桜井丹後守は、桜井政甫。桜井政甫が丹後守になったのが宝暦3(1753)年11月15日、免職が宝暦7(1757)年8月27日のため、3月は1754年~1757年
・1751年~1766年の間で、将軍家が公方・大紊言の二人であるのは、吉宗が死亡の寛延4(1751)年6月20日から家治が右大将叙任の宝暦10(1760)年2月4日であり、3月は1752年~1759年
・1754年~1757年の岡部美濃守は、岡部長著。岡部長著が美濃守になったのが享保9(1724)年、隠居が宝暦6(1756)年5月10日のため、3月は1754年~1756年
・松平忠吊の参府と岡部長著の御暇は申7月であり、1754年もしくは1756年
●宝暦4(1754)年もしくは宝暦6(1756)年の、 松平忠吊から桜井政甫への (参勤の時についての問合せ返事に対するお礼の)書状 である
<翻刻>
"
一 筆致啓達候

公方様 大紊言様益

御機嫌能被成御座奉

恐悦候将又拙者参勤

時分之儀相窺候処如前々

岡部美濃守殿被下御暇在所

到着以後可致参府之由

最前奉書到来難有

仕合奉存候忌明候間此旨為

可申述如此御座候恐惶謹言

    松平遠江守

三月廿五日 忠吊(花押)





桜井丹後守様

      人々御中
"
正徳5(1715)年 "本多中務大輔忠良・ 間部越前守詮房" 北小路左京権大夫 <人物>
*本多中務大輔忠良:本多忠良
 越後村上藩の第2代藩主(1709年~1710年)。
 三河刈谷藩の藩主(1710年~1712年)。
 下総古河藩の初代藩主(1712年~1751年)。
 老中。
*間部越前守詮房:間部詮房
 相模厚木藩の藩主(1706年~1710年)。
 上野高崎藩の藩主(1710年~1717年)。
 越後村上藩の初代藩主(1717年~1720年)。
 老中格。
*東照宮:徳川家康
 江戸幕府の初代将軍(1603年~1605年)。
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・本多忠良が中務大輔になったのが宝永7(1710)年、死亡が寛延4(1751)年6月1日
・間部詮房が越前守になったのが宝永元(1704)年、死亡が享保5(1720)年7月16日
・東照宮100回忌の法要は正徳5(1715)年4月17日に実施
・正徳5(1715)年は、本多忠良と間部詮房はともに側用人で、それぞれ「老中に次ぐ《「老中格《
●正徳5(1715)年の、 本多忠良・間部詮房から北小路左京権大夫への (徳川家康100回忌に対する側用人連署の)書状(返書) である
<翻刻>
"
従二條殿御書致

拝見候今度

東照宮百回御忌

御法會首尾好相済

珍重之旨尤之御事候

因茲御参向之処御態之

御儀忝忝之由得其意存候

被入御念候御紙面之趣

各言上之事候恐々謹言

      本多中務大輔

六月廿七日  忠良(花押)

      間部越前守

       詮房(花押)



 北小路左京権大夫殿
"
寛文12(1672)年~延宝4(1676)年 久大和守廣之 大口十右衛門 <人物>
*久大和守廣之:久世広之
 下総関宿藩の初代藩主(1669年~1679年)。
 老中。
*大口十右衛門: 播磨山崎藩用人役。
*豊前守:池田政周
 播磨山崎藩の第2代藩主(1671年~1677年)。
<文字>
・ゟ:「より《の合字
・珎:珍の異体字
<解読>
・久世広之が大和守になったのは寛永13(1636)年、死亡が延宝7(1679)年
・豊前守は山崎藩主の池田政周。池田政周の藩主在職期間は寛文11(1671)年10月晦日から死亡の延宝5(1677)年1月8日のため、1月20日は寛文12(1672)年~延宝4(1676)年
●寛文12(1672)年~延宝4(1676)年の、 久世広之から大口十右衛門への (年始の)書状(返書) である
延宝6(1678)年 久大和守廣之 大口十右衛門 <人物>
*久大和守廣之:久世広之
 下総関宿藩の初代藩主(1669年~1679年)。
 老中。
*大口十右衛門: 播磨山崎藩用人役。
*数馬:池田恒行
 播磨山崎藩の第3代藩主(1677年~1678年)。
<用語>
・永日(えいじつ):春の日が永いこと
<文字>
・迠:迄の異体字
・珎:珍の異体字
・當:当の異体字
<解読>
・久世広之が大和守になったのは寛永13(1636)年、死亡が延宝7(1679)年
・数馬は山崎藩主の池田恒行。池田恒行の藩主在職期間は延宝5(1677)年3月から死亡の延宝6(1678)年12月27日のため、1月は延宝6(1678)年
●延宝6(1678)年の、 久世広之から大口十右衛門への (年始の)書状(返書) である
寛文12(1672)年~延宝4(1676)年 久大和守廣之 大口十右衛門 <人物>
*久大和守廣之:久世広之
 下総関宿藩の初代藩主(1669年~1679年)。
 老中。
*大口十右衛門: 播磨山崎藩用人役。
*豊前守:池田政周
 播磨山崎藩の第2代藩主(1671年~1677年)。
<用語>
・後音(こういん):あとからの便り
<文字>
・迠:迄の異体字
・珎:珍の異体字
<解読>
・久世広之が大和守になったのは寛永13(1636)年、死亡が延宝7(1679)年
・豊前守は山崎藩主の池田政周。池田政周の藩主在職期間は寛文11(1671)年10月晦日から死亡の延宝5(1677)年1月8日のため、10月22日は寛文12(1672)年~延宝4(1676)年
●寛文12(1672)年~延宝4(1676)年の、 久世広之から大口十右衛門への (贈物へのお礼の)書状(返書) である
文政5(1822)年~文政7(1824)年 京極周防守高備 上杦弾正大弼 <人物>
*京極周防守高備:京極高備
 丹後峰山藩の第7代藩主(1808年~1832年)。
*上杦弾正大弼:上杉斉定
 出羽米沢藩の第11代藩主(1812年~1839年)。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*内府:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<用語>
・貴翰(きかん):(相手に敬意を示しての)お手紙
・宿次(しゅくつぎ):宿(宿駅、宿場)の間を、次々に人馬をかえながら送り継ぐこと
・鷹之鶴:将軍が鷹狩りでとらえた鶴。朝廷へも献上した
・随而(したがって):ここでは、「それだから《ではなく「次に《
<文字>
・禮:礼の異体字
・迠:迄の異体字
・杦:杉の異体字
<解読>
・京極高備が周防守になったのが天明8(1788)年、死亡が天保6(1835)年5月3日
・1788年~1835年の間で、将軍家が公方・内府の二人であるのは、徳川家慶が内府叙任の文政5(1822)年3月5日~徳川家定が誕生の文政7(1824)年4月8日
・1822年~1824年の上杉弾正大弼は、上杉斉定
・1822年~1824年の京極高備は、若年寄
●文政5(1822)年~文政7(1824)年の、 京極高備から上杉斉定への (鷹之鶴を拝領についての)書状(返書) である
<翻刻>
"
貴翰致拝見候

公方様 内府様益

御機嫌能被成御座候恐悦

被思召旨尤之御事候然者

以宿次奉書御鷹之鶴被成

御拝領雅有思召由依之為

御礼老中迄以御使札就

被仰達候御紙面之趣承知

仕候随而御目録之通被懸貴意

忝奉存候恐惶謹言



      京極周防守

四月廿八日  高備(花押)



上杉弾正大弼様

      貴報
"
延宝5(1677)年 綱利 朽木長次衛門 <人物>
*綱利:細川綱利
 肥後熊本藩の第3代藩主(1649年~1712年)。
*朽木長次衛門: 細川家家臣。
<文字>
・寶:宝の異体字
<解読>
・文中に「充行・・・《「領知・・・《とあることから、領知宛行状と判断
・肥後国八代郡などを領有したのは、熊本藩
・延宝5(1677)年における熊本藩主の綱利は、細川綱利
●延宝5(1677)年の、 細川綱利から朽木長次衛門への (500石加増の)宛行状 である
<翻刻>
"
肥後国於八代郡之内今村玉吊郡之内

福山村阿蘓郡之内小池村西町村益城郡之内

北萩尾村五百石目録在別紙事

為加増充行之畢本地五百石都合千石

全可領知之状如件



  延宝五年十二月五日 綱利(花押)



           朽木長次衛門とのへ
"
明和7(1770)年~安永9(1780)年 板倉佐渡守勝清 久留嶋信濃守 <人物>
*板倉佐渡守勝清:板倉勝清
 陸奥泉藩の第2代藩主(1717年~1746年)。
 遠江相良藩の藩主(1746年~1749年)。
 上野安中藩の初代藩主(1749年~1780年)。
 老中。
*久留嶋信濃守:久留島通祐
 豊後森藩の第6代藩主(1764年~1791年)。
<用語>
・一腰(こし・ふり):刀を数えるときの助数詞。
・一疋(ひき):動物を数えるときの助数詞。匹。
<解読>
・文中に「披露・・・《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・板倉勝清の老中在職期間は1769年8月18日~1780年6月28日のため、1月は1770年~1780年のみ
・徳川家治の将軍在職期間は1760年9月2日~1786年9月8日
・明和7(1770)年~安永9(1780)年における久留嶋信濃守は、久留島通祐
●明和7(1770)年~安永9(1780)年の、 板倉勝清から久留島通祐への (徳川家治に年頭の祝儀を献上したことに対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
為年頭之御祝儀

以使者御太刀一腰

御馬一疋進上之候

遂披露候処一段之

仕合候恐々謹言



      板倉佐渡守

 正月十一日  勝清(花押)



  久留島信濃守殿
"
寛永4(1627)年~寛永8(1631)年 稲葉丹後守正勝 <人物>
*稲葉丹後守正勝:稲葉正勝
 常陸柿岡藩の藩主(1624年~1628年)。
 下野真岡藩の第2代藩主(1628年~1632年)。
 相模小田原藩の初代藩主(1632年~1634年)。
 老中。
*公方:徳川家光
 江戸幕府の第3代将軍(1623年~1651年)。
*大紊言:徳川忠長
 徳川秀忠の三男。
<解読>
・稲葉正勝が丹後守になったのが寛永元(1624)年、死亡が寛永11(1634)年1月25日
・1624年~1634年の大紊言は、寛永3(1626)年8月19日に叙任の徳川忠長。死亡が寛永10(1633)年12月6日のため、5月は1627年~1633年
・徳川忠長は、寛永8(1631)年5月に甲府へ蟄居、寛永9(1832)年10月に改易で上野高崎へ逼塞のため、「居城《の話は1627年~1631年
●寛永4(1627)年~寛永8(1631)年の、 稲葉正勝からの 書状(返書) である
文政10(1827)年 永井信濃守直養 靑下野守・水出羽守・大加賀守・松和泉守 <人物>
*永井信濃守直養:永井直養
 大和新庄藩の第6代藩主(1825年~1850年)。
*靑下野守:青山忠裕
 丹波篠山藩の第4代藩主(1785年~1835年)。
 老中。
*水出羽守:水野忠成
 駿河沼津藩の第2代藩主(1802年~1834年)。
 老中。
*大加賀守:大久保忠真
 相模小田原藩の第7代藩主(1796年~1837年)。
 老中。
*松和泉守:松平乗寛
 三河西尾藩の第3代藩主(1793年~1839年)。
 老中。
<用語>
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
<文字>
・靑:青の異体字
・𠫵:参の異体字
<解読>
・文中に「奉書拝見《とあり、老中奉書に対する請書と判断
・永井直養の藩主在職期間は文政8(1825)年~嘉永3(1850)年
・1825年~1850年における青下野守・水出羽守・大加賀守・松和泉守という老中は、青山忠裕(1804年~1835年)、水野忠成(1817年~1834年)、大久保忠真(1818年~1837年)、松平乗寛(1822年~1839年)のみ
・永井直養が日光祭祀奉行になったのは文政10(1827)年と嘉永元(1848)年であり、老中4人と整合するのは文政10(1827)年のみ
●文政10(1827)年の、 永井直養から青山忠裕・水野忠成・大久保忠真・松平乗寛への (登城の老中奉書に対する)請書 である
<翻刻>
"
御奉書拝見仕候明日日光

江之御暇可被下候間四時

登

城可仕旨奉畏候恐惶謹言



         永井信濃守

四月十日      直養(花押)





青 下野守様

水 出羽守様

大 加賀守様

松 和泉守様

     参尊報
"
寛永17(1640)年~寛文7(1667)年 稲美濃守正則 沢村宇右衛門 <人物>
*稲美濃守正則:稲葉正則
 相模小田原藩の第2代藩主(1634年~1683年)。
 老中。
*沢村宇右衛門:沢村友好。 熊本藩家老。
<用語>
・飛札(ひさつ):急ぎの手紙
・曲物(まげもの):檜や杉などを薄く削った材を円形に曲げて作った容器
・土肥:小田原藩の領地、現在の湯河原町
・委曲(いきょく):くわしいこと
<文字>
・迠:迄の異体字
・ホ:等の異体字
・氣:気の異体字
・㐧:第の異体字
・ゟ:「より《の合字
<解読>
・稲葉正則が美濃守になったのは寛永11(1634)年、死亡が元禄9(1696)年
・沢村友好が沢村家の養子になったのが寛永10(1633)年、家老になったのが寛永17(1640)年、死亡が寛文5(1665)年10月7日
●寛永17(1640)年~寛文7(1667)年の、 稲葉正則から沢村友好への (梨の蜜漬けを送られたことへのお礼の)書状(返書) である
<翻刻>
"
  猶々其元屋敷へ度々御見廻

  之由申越令満足候以上



家来之者共方迄

遠路飛札令披見候

殊梨子蜜漬曲物五

贈給令祝着候如承意

我等気色湯相應申

次第得快守一昨十五日

領分土肥へ相越候委曲

家来之者方ゟ可申

入候恐々謹言



      稲美濃守

六月十七日   正則(花押)



沢村宇右衛門殿
"
寛永17(1640)年~寛文7(1667)年 稲美濃守正則 沢村宇右衛門 <人物>
*稲美濃守正則:稲葉正則
 相模小田原藩の第2代藩主(1634年~1683年)。
 老中。
*沢村宇右衛門:沢村友好。 熊本藩家老。
<文字>
・〆:「しめ《。手紙の封のしるし
・迠:迄の異体字
<解読>
・稲葉正則が美濃守になったのは寛永11(1634)年、死亡が元禄9(1696)年
・沢村友好が沢村家の養子になったのが寛永10(1633)年、家老になったのが寛永17(1640)年、死亡が寛文5(1665)年10月7日
●寛永17(1640)年~寛文7(1667)年の、 稲葉正則から沢村友好への (鮒を送られたことへのお礼の)書状(返書) である
<翻刻>
"
         稲美濃守

〆沢村宇右衛門殿 参   正則



先刻者家来之者方迄御状

殊鮒五送給御心入之段欣悦

之至存候為其如此候恐々謹言

 二月三日  正則(花押) 
"
寛永17(1640)年~寛文7(1667)年 久世大和守廣之 沢村宇右衛門 <人物>
*久世大和守廣之:久世広之
 下総関宿藩の初代藩主(1669年~1679年)。
 老中。
*沢村宇右衛門:沢村友好。 熊本藩家老。
<文字>
・〆:「しめ《。手紙の封のしるし
・禮:礼の異体字
<解読>
・久世広之が大和守になったのは寛永13(1636)年、死亡が延宝7(1679)年
・沢村友好が沢村家の養子になったのが寛永10(1633)年、家老になったのが寛永17(1640)年、死亡が寛文5(1665)年10月7日
●寛永17(1640)年~寛文7(1667)年の、 久世広之から沢村友好への (鯉を送られたことへのお礼の)書状 である
<翻刻>
"
           久世大和守

〆沢村宇右衛門様 人々御中  廣之



昨日者御使者並鯉二本

贈給忝存候 御城在之

御礼令延引候如承意之

先日者始御目大慶至候

恐惶謹言

 六月十一日   廣之(花押)
"
寛永17(1640)年~寛文2(1662)年 松平出雲守勝隆 澤村宇右衛門 <人物>
*松平出雲守勝隆:松平勝隆
 上総佐貫藩の初代藩主(1638年~1662年)。
 老中。
*澤村宇右衛門:沢村友好。 熊本藩家老。
<文字>
・〆:「しめ《。手紙の封のしるし
<解読>
・松平勝隆が出雲守になったのは元和3(1617)年、隠居が寛文2(1662)年9月
・沢村友好が沢村家の養子になったのが寛永10(1633)年、家老になったのが寛永17(1640)年、死亡が寛文5(1665)年10月7日
●寛永17(1640)年~寛文2(1662)年の、 松平勝隆から沢村友好への (太刀・馬代・銀子・小袖を送られたことへのお礼の)書状 である
延享5(1748)年~宝暦元(1751)年 西尾隠岐守忠尚 <人物>
*西尾隠岐守忠尚:西尾忠尚
 遠江横須賀藩の第2代藩主(1713年~1760年)。
 老中。
*三御所:徳川吉宗、 江戸幕府の先の第8代将軍(1716年~1745年)と、
徳川家重、 当代の第9代将軍(1745年~1760年)と、
徳川家治、 後の第10代将軍(1760年~1786年)。
<用語>
・具足祝:毎年1月11日に江戸城で「具足餅祝《をした。鏡開きの由来
<解読>
・西尾忠尚が隠岐守になったのが正徳3(1713)年8月7日、死亡が宝暦10(1760)年3月10日
・1713年~1760年の間で、将軍家が大御所・公方・大紊言の三人であるのは、家重が将軍就任の延享2(1745)年11月2日~吉宗が死亡の寛延4(1751)年6月20日の間であり、2月7日は1746年~1751年
・忠直から忠尚に改めたのは延享4(1747)年3月。また、3月朔日から大御所(吉宗)御付の西丸老中に
・1748年7月に延享から寛延に改元のため、2月は延享
●延享5(1748)年~宝暦元(1751)年の、 西尾忠尚からの (具足祝についての西丸老中の)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候

三御所様益御機嫌

能被成御座去月十一日

御具足御祝相済候段

被承之恐悦旨尤候

紙面之趣可及言上候

恐々謹言



   西尾隠岐守

二月七日 忠尚(花押)
"
嘉永7(1854)年~安政2(1855)年 家定 南部遠江守 <人物>
*家定:徳川家定
 江戸幕府の第13代将軍(1853年~1858年)。
*南部遠江守:南部信順
 陸奥八戸藩の第9代藩主(1842年~1871年)。
*松平和泉守:松平乗全
 三河西尾藩の第4代藩主(1839年~1862年)。
 老中。
<用語>
・帷子(かたびら):単物のうち夏用の麻の着物
・単物(ひとえもの):裏をつけない着物
・思食(おぼしめす):思し召す。お思いになる。思うの尊敬語
<解読>
・徳川家定の将軍在職期間は1853年10月23日~1858年7月6日のため、5月は1854年~1858年
・1854年~1858年における南部遠江守は、南部信順
・1854年~1858年における松平和泉守という老中は、松平乗全。松平乗全の老中在職期間は1848年10月18日~1855年8月4日と1858年6月23日~1860年4月28日のため、将軍が徳川家定の5月は1854年~1855年のみ
・1854年11月に嘉永から安政に改元のため、5月は嘉永
●嘉永7(1854)年~安政2(1855)年の、 徳川家定から南部信順への (端午の祝儀を献上したことに対する)御内書 である
<翻刻>
"
為端午之祝儀

帷子単物到来

歓思食候猶

松平和泉守可

申候也



五月二日 (黒印)



   南部遠江守とのへ
"
文化13(1816)年 本多肥後守忠敬 大加賀守 <人物>
*本多肥後守忠敬:本多忠敬
 播磨山崎藩の第7代藩主(1812年~1834年)。
*大加賀守:大久保忠真
 相模小田原藩の第7代藩主(1796年~1837年)。
 老中。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*右大将:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<文字>
・轉:転の異体字
・𣴎:承の異体字
・𠫵:参の異体字
<解読>
・本多忠敬の藩主在職期間は文化9(1812)年10月18日~天保5(1834)年11月27日のため、4月は1813年~1834年
・1813年~1834年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家慶が右大将叙任の文化13(1816)年4月2日から内大臣叙任の文政5(1822)年3月5日までの間であり、4月18日は1816年~1821年
・1816年~1821年における大加賀守は、大久保忠真
・1810年~1824年の間に「転任・兼任《があるのは、徳川家斉が右大臣に転任、徳川家慶が右大将を兼任の文化13(1816)年4月2日のこと
●文化13(1816)年の、 本多忠敬から大久保忠真への (将軍家の転任・兼任の祝いの)書状 である
<翻刻>
"
一 筆啓上仕候

公方様 右大将様益御機嫌能

被成御座奉恐悦候今度

御転任 御兼任御規式無残所

相済候段承知之仕誠以目出度

御儀奉存候右御祝詞為可

申上呈愚札候恐惶謹言



      本多肥後守

 四月十八日  忠敬(花押)



大加賀守様

    参人々御中
"
万治3(1660)年~寛文6(1666)年 家綱 分部若狭守 <人物>
*家綱:徳川家綱
 江戸幕府の第4代将軍(1651年~1680年)。
*分部若狭守:分部嘉高
 近江大溝藩の第3代藩主(1658年~1667年)。
*酒井雅楽頭:酒井忠清
 上野厩橋藩の第4代藩主(1637年~1681年)。
 老中、大老。
<用語>
・小袖(こそで):絹の綿入れ
・一重(ひとかさね):助数詞
・思食(おぼしめす):思し召す。お思いになる。思うの尊敬語
・委曲(いきょく):くわしいこと
<解読>
・徳川家綱の将軍在職期間は1651年8月18日~1680年5月8日のため、12月は1651年~1679年
・1651年~1679年における分部家の藩主は、分部嘉高もしくは分部信政。分部嘉高が若狭守になったのが万治3(1660)年、死亡が寛文7(1667)年6月12日、分部信政が若狭守になったのが元禄15(1702)年、死亡が正徳4(1714)年のため、1660年~1666年の分部嘉高
・1660年~1666年における酒井雅楽頭という老中は、酒井忠清。酒井忠清の老中在職期間は1653年閏6月5日~1666年3月29日、大老在職期間は1666年3月29日~1680年12月9日のため、将軍が徳川家綱の12月27日は1653年~1666年のみ
●万治3(1660)年~寛文6(1666)年の、 徳川家綱から分部嘉高への (歳暮の祝儀を献上したことに対する)御内書 である
<翻刻>
"
為歳暮之祝儀

小袖一重到来

歓思食候委曲

酒井雅楽頭可

申候也



十二月廿七日 (黒印)



   分部若狭守とのへ
"
天保5(1834)年 家斉 相良壱岐守 <人物>
*家斉:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*相良壱岐守:相良頼之
 肥後人吉藩の第13代藩主(1818年~1839年)。
*松平和泉守:松平乗寛
 三河西尾藩の第3代藩主(1793年~1839年)。
 老中。
<用語>
・重陽(ちょうよう):陰暦9月9日。五節句(5月5日端午、7月7日七夕 等)の1つ。菊の節句
・小袖(こそで):絹の綿入れ
・一重(ひとかさね):助数詞
・思食(おぼしめす):思し召す。お思いになる。思うの尊敬語
<解読>
・徳川家斉の将軍在職期間は1787年4月15日~1837年4月2日のため、9月は1787年~1836年
・1787年~1836年における相良壱岐守は、相良頼之。相良頼之の藩主在職期間は1818年10月6日~1839年7月17日、壱岐守になったのが文政7(1824)年5月13日のため、9月は1824年~1836年
・1824年~1836年における松平和泉守という老中は、松平乗寛。松平乗寛の老中在職期間は1822年9月3日~1839年12月2日のため、9月7日は1824年~1836年のみ
・天保5甲午年という付紙にも整合
●天保5(1834)年の、 徳川家斉から相良頼之への (重陽の祝儀を献上したことに対する)御内書 である
<翻刻>
"
為重陽之祝儀

小袖一重到来

歓思食候猶

松平和泉守可

申候也



九月七日 (黒印)



   相良壱岐守とのへ
"
元文2(1737)年~延享元(1744)年 松平左近将監乗邑 稲葉万次郎 <人物>
*松平左近将監乗邑:松平乗邑
 肥前唐津藩の第3代藩主(1690年~1691年)。
 志摩鳥羽藩の藩主(1691年~1710年)。
 伊勢亀山藩の藩主(1710年~1717年)。
 山城淀藩の藩主(1717年~1723年)。
 下総佐倉藩の初代藩主(1723年~1745年)。
 老中。
*稲葉万次郎:稲葉泰通
 豊後臼杵藩の第9代藩主(1737年~1768年)。
<用語>
・白干(しらぼし):塩などにつけずにそのまま干したもの
<文字>
・〆:「しめ《。手紙の封のしるし
・處:処の異体字
<解読>
・文中に「披露・・・《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・松平乗邑の老中在職期間は1723年4月21日~1745年10月9日のため、11月6日は1723年~1744年のみ
・徳川吉宗の将軍在職期間は1716年~1745年
・1723年~1744年における稲葉万次郎は、稲葉泰通。稲葉泰通の藩主在職期間は元文2(1737)年~明和5(1768)年
・1744年2月に寛保から延享に改元のため、11月は延享
●元文2(1737)年~延享元(1744)年の、 松平乗邑から稲葉泰通への (徳川吉宗に白干鮎を献上したことに対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
〆稲葉万次郎殿 松平左近将監



~~~~~~~~~~



今朝白干鮎一箱進上之候

遂披露候処一段之

仕合候恐々謹言



十一月六日  乗邑(花押)
"
延宝7(1679)年 本多肥後守政貞 福聚院 <人物>
*本多肥後守政貞:本多忠英
 大和郡山新田藩の第2代藩主(1662年~1679年)。
 播磨山崎藩の初代藩主(1679年~1718年)。
<用語>
・青陽(せいよう):初春
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・本多忠英が肥後守になったのは延宝6(1678)年、政貞から改吊したのが延宝7(1679)年であり、1月は1679年
●延宝7(1679)年の、 本多忠英から福聚院への (年始祝儀のお礼の)書状 である
天保13(1842)年 嶋津又之進忠寛 水野越前守・堀田備中守・真田信濃守 <人物>
*嶋津又之進忠寛:島津忠寛
 日向佐土原藩の第11代藩主(1839年~1871年)。
*水野越前守:水野忠邦
 肥前唐津藩の第4代藩主(1812年~1817年)。
 遠江浜松藩の初代藩主(1817年~1845年)。
 老中。
*堀田備中守:堀田正篤(堀田正睦)
 下総佐倉藩の第5代藩主(1825年~1859年)。
 老中。
*真田信濃守:真田幸貫
 信濃松代藩の第8代藩主(1823年~1852年)。
 老中。
<文字>
・𠫵:参の異体字
<解読>
・島津忠寛の藩主在職期間は天保10(1839)年~明治4(1871)年
・1839年~1868年における水野越前守・堀田備中守・真田信濃守という老中が併存するのは、水野忠邦(1834年3月1日~1843年閏9月13日)、堀田正篤(1841年2月23日~1843年閏9月8日)、真田幸貫(1841年6月13日~1844年5月13日)であり、1841年6月13日~1843年閏9月8日のみで、3月は天保13(1842)年~天保14(1843)年
・島津忠寛の参府は丑卯巳未酉亥4月であり、3月に江戸にいるのは1842年
●天保13(1842)年の、 島津忠寛から水野忠邦・堀田正篤・真田幸貫への (登城の老中奉書に対する)請書 である
<翻刻>
"
御切書拝見仕候御用之儀

御座候間明日四時私為吊代

一類中壱人登

城可仕旨御紙上之趣

奉畏候恐惶謹言



      嶋津又之進

 三月廿七日   忠寛(花押)



水野越前守様

堀田備中守様

真田信濃守様

     参人々御中
"
天保14(1843)年 伊達遠江守宗紀 内藤豊後守 <人物>
*伊達遠江守宗紀:伊達宗紀
 伊予宇和島藩の第7代藩主(1824年~1844年)。
*内藤豊後守:内藤正縄
 信濃岩村田藩の第6代藩主(1803年~1860年)。
*公方:徳川家慶
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
*右大将:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<用語>
・永日(えいじつ):春の日が永いこと
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・伊達宗紀の藩主在職期間は1824年~1844年
・1824年~1844年における内藤豊後守は、内藤正縄
・1824年~1844年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家斉が死亡の1841年1月30日から1844年
・1月3日と整合するのは天保13(1842)年~天保15(1844)年のみ
・伊達宗紀の御暇は丑卯巳未酉亥4月であり、正月に江戸にいるのは1843年
●天保14(1843)年の、 伊達宗紀から内藤正縄への (年始の)書状 である
<翻刻>
"
改年之御慶奉上可

申収候

公方様 右大将様益

御機嫌能御成御座

年始之御規式如御嘉例

相済奉恐悦候将又

弥御堅固可為御越年

珎重存之年始為御祝詞

如此御座候猶期永日候

恐惶謹言



      伊達遠江守

 正月三日  宗紀(花押)



内藤豊後守様

    人々御中
"
天保15(1844)年~嘉永元(1848)年 久世出雲守廣周 諏方大祝 <人物>
*久世出雲守廣周:久世広周
 下総関宿藩の第7代藩主(1830年~1862年)。
 老中。
<用語>
・大祝:おおほうり。諏訪社の頂点の神職
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・広周が出雲守になったのは1843年12月23日、大和守になったのは1848年10月18日のため、2月は1844年~1848年
●天保15(1844)年~嘉永元(1848)年の、 久世広周から諏訪大祝への (年始の)書状(返書) である
元治元(1864)年 "牧野備前守忠恭・ 井上河内守正直・ 板倉周防守勝静" 稲葉長門守 <人物>
*牧野備前守忠恭:牧野忠恭
 越後長岡藩の第11代藩主(1858年~1867年)。
 老中。
*井上河内守正直:井上正直
 遠江浜松藩の第2代藩主(1847年~1868年)。
 上総鶴舞藩の初代藩主(1868年~1871年)。
 老中。
*板倉周防守勝静:板倉勝静
 備中松山藩の第7代藩主(1849年~1869年)。
 老中。
*稲葉長門守:稲葉正邦
 山城淀藩の第12代藩主(1848年~1871年)。
 老中。
*公方:徳川家茂
 江戸幕府の第14代将軍(1858年~1866年)。
<用語>
・永日(えいじつ):春の日が永いこと
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書と判断
・牧野忠恭・井上正直・板倉勝静が老中なのは、牧野忠恭(1863年9月13日~1865年4月19日)、井上正直(1862年10月9日~1864年7月12日、1865年11月26日~1867年6月17日)、板倉勝静(1862年3月15日~1864年6月18日、1865年10月22日~1868年1月29日)であり、1863年9月13日~1864年6月18日のみのため、1月3日は1864年のみ
・1864年の稲葉長門守は、稲葉正邦
・1864年の将軍家は公方の徳川家茂のみ
●元治元(1864)年の、 牧野忠恭から稲葉正邦への (年始の、連署の)老中奉書 である
<翻刻>
"
新春之慶賀

珍重候

公方様益御勇健

可被遂御座目出度

御事上可過之候猶期

永日候恐々謹言

   牧野備前守

正月三日  忠恭(花押)

   井上河内守

      正直(花押)

   板倉周防守

      勝静(花押)



稲葉長門守殿
"
天保6(1835)年~天保7(1836)年 松平美濃守齊溥 神尾豊後守 <人物>
*松平美濃守齊溥:黒田長溥
 筑前福岡藩の第11代藩主(1834年~1869年)。
*神尾豊後守:神尾守富。
 旗本。天保6~7年は大目付。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*内府:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
*大紊言:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<用語>
・熨斗鮑(のしあわび):アワビを薄く長く切り干したもの。今の熨斗の長六角形の中心の黄色のもと
・進覧(しんらん):目上の人にみせること
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・黒田長溥の藩主在職期間は天保5(1834)年11月6日~明治2(1869)年2月5日のため、7月は1835年~1868年
・1835年~1868年の間で、将軍家が公方・内府・大紊言の三人であるのは、(徳川家定が大紊言になった文政11(1828)年から家斉が大御所になる天保8(1837)年4月2日までの間であり、7月は1835年~1836年
・1835年~1836年の神尾豊後守は、神尾守富
・神尾守富は、天保6(1835)年5月9日から大目付、天保10(1839)年7月8日から御旗奉行
●天保6(1835)年~天保7(1836)年の、 黒田長溥から神尾守富への (献上残の鮑についての)書状 である
<翻刻>
"
一 筆令啓達候

公方様 内府様

大紊言様益御機嫌能被成

御座奉恐悦候将又貴様弥

可為御堅固珎重存候仍而

献上残切熨斗鮑一箱

令進覧之候恐惶謹言

      松平美濃守

 七月廿三日 齊溥(花押)



 神尾豊後守様

    人々御中
"
弘化3(1846)年~嘉永3(1850)年 戸田山城守忠温 松平出羽守 <人物>
*戸田山城守忠温:戸田忠温
 下野宇都宮藩の第4代藩主(1823年~1851年)。
 老中。
*松平出羽守:松平斉貴(松平斉斎)
 出雲松江藩の第9代藩主(1822年~1853年)。
*公方:徳川家慶
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
*右大将:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<用語>
・参勤(さんきん):江戸に出て将軍に謁見し勤務すること
・朔日(さくじつ、ついたち):陰暦の月の第一日
<解読>
・文中に「令披見《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・戸田忠温の老中在職期間は弘化2(1845)年3月18日~嘉永4(1851)年7月26日、山城守になったのが1843年
・1845年~1851年の間で、将軍家が公方・右大将の二人は、徳川家慶・徳川家定
・1845年~1851年における松平出羽守は、松平斉貴
・松平斉貴の参府は子寅辰午申戌4月であり、1846,1848,1850年のみ
●弘化3(1846)年~嘉永3(1850)年の、 戸田忠温から松平斉貴(松平斉斎)への (参勤の行程進捗についての)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御札令披見候

公方様 右大将様益

御機嫌能被成御座目出度

被存由得其意候紙面之趣

及言上候将又其方儀

為参勤去朔日国許

發足同九日伏見着之由

令承知候恐々謹言

     戸田山城守

 三月廿二日  忠温(花押)





  松平出羽守殿
"
天明元(1781)年~天明7(1787)年 阿備中守正倫 "千野兵庫・ 志賀七右衛門" <人物>
*阿備中守正倫:阿部正倫
 備後福山藩の第4代藩主(1769年~1803年)。
 老中。
*千野兵庫:千野貞亮。 信濃高島藩(諏訪藩)家老。
*志賀七右衛門: 千野兵庫の用人。
<用語>
・欣然(きんぜん):よろこぶ様子。よろこんで物事に打ち込む様子
<文字>
・迠:迄の異体字
・𠫵:参の異体字
<解読>
・阿部正倫が備中守になったのは明和4(1767)年12月16日、伊勢守になったのは天明7(1787)年
・高島藩の「二の丸騒動《において、天明元(1781)年に千野兵庫が、藩主諏訪忠厚の妹婿の三河西尾藩主の松平乗寛に訴え。松平乗寛は、阿部正倫、忠厚の従兄弟で伊予吉田藩主伊達村貞と連携して忠厚に対応。忠厚の正妻(後に離縁)は、阿部正倫の祖父である阿部正福の娘。差出と宛所はこれらの縁と推測し、天明元(1781)年以降の書状と推測
・志賀七右衛門も、上記の諏訪家2家老の騒動の際に、千野兵庫とともに出府した者として登場
●天明元(1781)年~天明7(1787)年の、 阿部正倫から千野貞亮・志賀七右衛門への (寒中伺いへのお礼の)書状 である
<翻刻>
"
為寒中尋向

家来方迄示給

欣然之至候為謝札

如此候恐々謹言

       阿備中守

 十二月廿八日 正倫(花押)





  千野兵庫殿

  志賀七右衛門殿

       御宿参
"
享保10(1725)年~享保11(1726)年 安藤尊馬守信賢 榊原式部大輔 <人物>
*安藤尊馬守信賢:安藤信賢(安藤信友)
 備中松山藩の第2代藩主(1698年~1711年)。
 美濃加紊藩の初代藩主(1711年~1732年)。
 老中。
*榊原式部大輔:榊原政邦
 越後村上藩の第2代藩主(1683年~1704年)。
 播磨姫路藩の初代藩主(1704年~1726年)。
*公方:徳川吉宗
 江戸幕府の第8代将軍(1716年~1745年)。
*大紊言:徳川家重
 後の第9代将軍(1745年~1760年)。
<用語>
・随而(したがって):ここでは、「それだから《ではなく「次に《
・初鶴:領内でその年に初めて捕獲した鶴。鶴は一部の権力者のみ捕獲等ができ贈答品
<解読>
・文中に「令披見《「披露《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・安藤信友が備中守になったのは享保3(1718)年8月、老中になったのが享保7(1722)年5月21日、死亡が享保17(1732)年7月25日のため、10月は1722年~1731年
・信友が署吊を信賢から信友に変えたのが享保12(1727)年8月のため、10月は1722年~1726年
・1722年~1726年の間で、将軍家が公方・大紊言の二人なのは、家重が大紊言になった享保10(1725)年4月9日~1726年
・1725年~1726年10月における榊原式部大輔は、榊原政邦
●享保10(1725)年~享保11(1726)年の、 安藤信賢(安藤信友)から榊原政邦への (徳川吉宗に初鶴を献上したことに対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候

公方様 大紊言様益

御機嫌能被成御座

恐悦旨尤候随而

初鶴一隻被献上候

遂披露候処一段之

御仕合候恐々謹言



   安藤尊馬守

十月十一日 信賢(花押)





 榊原式部大輔殿
"
享保10(1725)年~元文元(1736)年 松平加賀守吉治 本多伊豫守 <人物>
*松平加賀守吉治:前田吉治(前田吉徳)
 加賀加賀藩の第6代藩主(1723年~1745年)。
*本多伊豫守:本多忠統
 河内西代藩の第2代藩主(1711年~1732年)。
 伊勢神戸藩の初代藩主(1732年~1750年)。
*公方:徳川吉宗
 江戸幕府の第8代将軍(1716年~1745年)。
*右大将:徳川家重
 後の第9代将軍(1745年~1760年)。
<用語>
・飛札(ひさつ):急ぎの手紙
・後音(こういん):あとからの便り
<文字>
・迠:迄の異体字
・「日+寸《:時の異体字
<解読>
・前田吉徳の藩主在職期間は1723年~1745年、加賀守になったのが享保8(1723)年6月15日、吉治から吉徳に改めたのが元文5(1740)年11月16日
・1723年~1740年の間で、将軍家が公方・大紊言の二人なのは、徳川家重が大紊言になった享保10(1725)年4月9日から、徳川家治が誕生の元文2(1737)年5月22日のため、8月は1725年~1736年
・1725年~1736年における本多伊予守は、本多忠統。享保10(1725)年6月11日~寛延3(1750)年は若年寄
・1736年4月に享保から元文に改元のため、8月は元文
●享保10(1725)年~元文元(1736)年の、 前田吉治(前田吉徳)から本多忠統への 書状 である
嘉永2(1849)年~文久2(1862)年 阿部播磨守正耆 井伊兵部少輔 <人物>
*阿部播磨守正耆:阿部正耆
 陸奥白河藩の第6代藩主(1848年~1864年)。
*井伊兵部少輔:井伊直経もしくは井伊直充
 <井伊直経>
 越後与板藩の第8代藩主(1827年~1856年)。
 <井伊直充>
 越後与板藩の第9代藩主(1856年~1862年)。
<用語>
・尽期(じんご):尽きてなくなってしまう時
・永日(えいじつ):春の日が永いこと
・朔日(さくじつ、ついたち):陰暦の月の第一日
<文字>
・珎:珍の異体字
・「日+寸《:時の異体字
<解読>
・阿部正耆の藩主在職期間は1848年~1864年
・1849年1月~1864年1月における井伊兵部少輔は、井伊直経もしくは井伊直充。井伊直経が兵部少輔になったのが1843年、死亡が1856年6月。井伊直充が叙任したのが1856年12月、死亡が1862年9月
●嘉永2(1849)年~文久2(1862)年の、 阿部正耆から井伊直経もしくは井伊直充への (年始の)書状 である
貞享3(1686)年~元禄10(1697)年 加佐渡守明英 <人物>
*加佐渡守明英:加藤明英
 近江水口藩の第2代藩主(1684年~1695年)。
 下野壬生藩の初代藩主(1695年~1712年)。
<解読>
・加藤明英が佐渡守になったのが貞享2(1685)年12月28日、越中守になったのが元禄10(1697)年4月19日
●貞享3(1686)年~元禄10(1697)年の、 加藤明英からの (年始の祝いへのお礼の)書状(返書) である
<翻刻>
"
為年始之嘉儀

来札殊茶釜

一箱被相贈候令

祝着候恐々謹言

    加佐渡守

正月晦日  明英(花押)
"
明暦3(1657)年~元禄8(1695)年 松平丹後守光茂 中大路法橋 <人物>
*松平丹後守光茂:鍋島光茂
 肥前佐賀藩の第2代藩主(1657年~1695年)。
*烏丸光廣:烏丸光広
 公家。寛永15(1638)年に死没。
<解読>
・鍋島光茂の藩主在職期間は1657年~1695年
・烏丸光広は細川幽斎から古今伝授を受け、鍋島光茂も三条西実教より古今伝授を受けた、共に二条派
●明暦3(1657)年~元禄8(1695)年の、 鍋島光茂から中大路法橋への (門主より烏丸光広の追善供養を受けたことに対する)書状 である
<翻刻>
"
一筆致啓達候然者

従 御門主様烏丸

光廣卿追善御弔被為

拝領被思召出忝次第

難有奉存候御序之

刻於 御前宜御取成

所仰候恐惶謹言

    松平丹後守

九月十三日 光茂(花押)

 

中大路法橋様

    人々御中
"
寛文4(1664)年 "稲葉美濃守正則・ 阿部豊後守忠秋・ 酒井雅楽頭忠清" 戸澤能登守 <人物>
*稲葉美濃守正則:稲葉正則
 相模小田原藩の第2代藩主(1634年~1683年)。
 老中。
*阿部豊後守忠秋:阿部忠秋
 下野壬生藩の藩主(1635年~1639年)。
 武蔵忍藩の初代藩主(1639年~1671年)。
 老中。
*酒井雅楽頭忠清:酒井忠清
 上野厩橋藩の第4代藩主(1637年~1681年)。
 老中、大老。
*戸澤能登守:戸沢正誠
 出羽新庄藩の第2代藩主(1650年~1710年)。
*台徳院:徳川秀忠
 江戸幕府の第2代将軍(1605年~1623年)。
<用語>
・上聞(じょうぶん):天皇や君主、ここでは将軍の耳に入れること
<文字>
・佛:仏の異体字
・珎:珍の異体字
<解読>
・文中に「令披見《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・稲葉正則・阿部忠秋・酒井忠清が老中なのは、稲葉正則(1657年9月28日~1696年9月6日)、阿部忠秋(1633年3月26日~1666年3月29日)、酒井忠清(1653年閏6月5日~1666年3月29日)であり、1657年9月28日~1666年3月29日のみのため、2月13日は1658年~1666年
・1658年~1666年の戸澤能登守は、戸沢正誠
・1658年~1666年での台徳院(徳川秀忠)の遠忌は、寛文4(1664)年1月24日の三十三回忌
●寛文4(1664)年の、 稲葉正則・阿部忠秋・酒井忠清から戸沢正誠への (徳川秀忠の三十三回忌に対する)老中奉書(老中返札) である
延享3(1746)年~宝暦10(1760)年 家重 石川主殿頭 <人物>
*家重:徳川家重
 江戸幕府の第9代将軍(1745年~1760年)。
*石川主殿頭:石川総慶
 山城淀藩の第3代藩主(1710年~1711年)。
 備中松山藩の藩主(1711年~1744年)。
 伊勢亀山藩の初代藩主(1744年~1764年)。
*堀田相模守:堀田正亮
 出羽山形藩の第3代藩主(1731年~1746年)。
 下総佐倉藩の初代藩主(1746年~1761年)。
 老中。
<用語>
・帷子(かたびら):単物のうち夏用の麻の着物
・単物(ひとえもの):裏をつけない着物
・思食(おぼしめす):思し召す。お思いになる。思うの尊敬語
<解読>
・徳川家重の将軍在職期間は1745年11月2日~1760年5月13日のため、5月2日は1746年~1760年
・1746年~1760年における石川家の藩主は、石川主殿頭総慶
・1746年~1760年における堀田相模守という老中は、堀田正亮
●延享3(1746)年~宝暦10(1760)年の、 徳川家重から石川総慶への (端午の祝儀を献上したことに対する)御内書 である
<翻刻>
"
為端午之祝儀

帷子単物到来

歓思食候猶

堀田相模守可

申候也



五月二日 (黒印)



   石川主殿頭とのへ
"
宝暦14(1764)年~文化12(1814)年 井兵部直朗 <人物>
*井兵部直朗:井伊直朗
 越後与板藩の第6代藩主(1761年~1819年)。
<用語>
・年甫(ねんぽ):年のはじめ。年始。正月
<解読>
・井伊直朗が兵部少輔になったのが宝暦13(1763)年12月9日、四品になったのが文化9(1812)年12月で兵部大輔になったのも同時期、右京大夫になったのが文化12(1814)年ごろ
●宝暦14(1764)年~文化12(1814)年の、 井伊直朗からの (年始祝いに茶巾を受領したお礼の)書状(返書) である
<翻刻>
"
為年甫之嘉儀

芳札殊茶巾一箱

到来怡悦之至候

為謝詞如此候恐々謹言



    井兵部

正月廿八日 直朗(花押)

"
天明5(1785)年~文政13(1830)年 有左衛門佐誉純 <人物>
*有左衛門佐誉純:有馬誉純
 越前丸岡藩の第5代藩主(1772年~1830年)。
<文字>
・迠:迄の異体字
<解読>
・有馬誉純が左衛門佐に叙任したのが天明4(1784)年12月16日、隠居が文政13(1830)年4月23日
●天明5(1785)年~文政13(1830)年の、 有馬誉純からの (年始の)書状(返書) である
<翻刻>
"

為年始事之嘉儀

召仕共迄芳札殊

両種給之過分之至候

弥御無異一段之事候

恐々謹言



      有左衛門佐

 二月十五日  誉純(花押)

"
天明5(1785)年~文政13(1830)年 有左衛誉純 <人物>
*有左衛誉純:有馬誉純
 越前丸岡藩の第5代藩主(1772年~1830年)。
<文字>
・迠:迄の異体字
<解読>
・有馬誉純が左衛門佐に叙任したのが天明4(1784)年12月16日、隠居が文政13(1830)年4月23日
●天明5(1785)年~文政13(1830)年の、 有馬誉純からの (年始の)書状(返書) である
<翻刻>
"
為年頭之慶儀召仕共迄

芳札殊両種給之過分

之至候弥御無異一段之

事候恐々謹言



      有左衛

 二月五日  誉純(花押)

"
天明4(1784)年~文政12(1829)年 左衛門誉純 <人物>
*左衛門誉純:有馬誉純
 越前丸岡藩の第5代藩主(1772年~1830年)。
<文字>
・迠:迄の異体字
<解読>
・有馬誉純が左衛門佐に叙任したのが天明4(1784)年12月16日、隠居が文政13(1830)年4月23日
●天明4(1784)年~文政12(1829)年の、 有馬誉純からの 書状(返書) である
<翻刻>
"

為尋向召仕共迄

芳札殊両種給之

過分之至候弥御無異

一段之事候恐々謹言



      左衛門佐

 十二月十六日 誉純(花押)

"
天和3(1683)年~元禄15(1702)年 有左衛門佐永純 <人物>
*有左衛門佐永純:有馬永純(有馬清純)
 日向延岡藩の第3代藩主(1679年~1692年)。
 越後糸魚川藩の藩主(1692年~1695年)。
 越前丸岡藩の初代藩主(1695年~1702年)。
<用語>
・後音(こういん):あとからの便り
<解読>
・有馬清純が周防守から左衛門佐にあらためたのが天和3(1683)年5月3日、死亡が元禄15(1702)年12月
●天和3(1683)年~元禄15(1702)年の、 有馬永純(有馬清純)からの 書状(返書) である
正徳2(1712)年~享保18(1733)年 有左衛門佐純寿 <人物>
*有左衛門佐純寿:有馬純寿(有馬一準)
 越前丸岡藩の第2代藩主(1703年~1733年)。
<用語>
・青陽(せいよう):初春
・後音(こういん):あとからの便り
<文字>
・迠:迄の異体字
<解読>
・有馬一準が左衛門佐になったのが正徳元(1711)年6月4日、隠居が享保18(1733)年4月
●正徳2(1712)年~享保18(1733)年の、 有馬純寿(有馬一準)からの 書状(返書) である
享保19(1734)年~宝暦6(1756)年 有日向守孝純 <人物>
*有日向守孝純:有馬孝純
 越前丸岡藩の第3代藩主(1733年~1757年)。
<用語>
・後音(こういん):あとからの便り
<文字>
・迠:迄の異体字
<解読>
・有馬孝純が日向守になったのが享保18(1733)年12月18日、死亡が宝暦7(1757)年2月8日
●享保19(1734)年~宝暦6(1756)年の、 有馬孝純からの 書状(返書) である
天明5(1785)年~文政13(1830)年 有左衛門佐誉純 <人物>
*有左衛門佐誉純:有馬誉純
 越前丸岡藩の第5代藩主(1772年~1830年)。
<文字>
・迠:迄の異体字
<解読>
・有馬誉純が左衛門佐に叙任したのが天明4(1784)年12月16日、隠居が文政13(1830)年4月23日
●天明5(1785)年~文政13(1830)年の、 有馬誉純からの (年始の)書状(返書) である
元禄8(1695)年~宝永3(1706)年 稲能登守知通 永原屋久兵衛 <人物>
*稲能登守知通:稲葉知通
 豊後臼杵藩の第6代藩主(1694年~1706年)。
<文字>
・迠:迄の異体字
・珎:珍の異体字
<解読>
・稲葉知通が藩主になったのが元禄7(1694)年、死亡が宝永3(1706)年4月
●元禄8(1695)年~宝永3(1706)年の、 稲葉知通から永原屋久兵衛への (年始の)書状(返書) である
延宝元(1673)年~元禄6(1693)年 稲右京亮景通 永原屋久兵衛 <人物>
*稲右京亮景通:稲葉景通
 豊後臼杵藩の第5代藩主(1673年~1694年)。
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・稲葉景通が藩主になったのが寛文13(1673)年6月、死亡が元禄7(1694)年4月
・1673年9月に寛文から延宝に改元のため、12月は延宝
●延宝元(1673)年~元禄6(1693)年の、 稲葉景通から永原屋久兵衛への 書状(返書) である
天明5(1785)年~天明6(1786)年 井伊掃部頭直幸 稲葉能登守 <人物>
*井伊掃部頭直幸:井伊直幸
 近江彦根藩の第12代藩主(1755年~1789年)。
 大老。
*稲葉能登守:稲葉弘通
 豊後臼杵藩の第10代藩主(1768年~1800年)。
*公方:徳川家治
 江戸幕府の第10代将軍(1760年~1787年)。
<用語>
・東叡山:徳川将軍家の祈祷所・菩提寺である寛永寺の山号
・朔日(さくじつ、ついたち):陰暦の月の第一日
<解読>
・宛所の敬称が「殿《であることから、大老奉書(大老返札)と判断
・井伊直幸が掃部頭になったのが宝暦5(1755)年、直英から直幸に改吊したのが宝暦10(1760)年、大老は天明4(1784)年11月28日~天明7(1787)年9月1日、死亡が寛政元(1789)年2月
・1785年9月~1787年9月の稲葉能登守は、稲葉弘通
・花押が数字の「6《のように上部が空いているのは、天明6(1786)年末まで
・1785~1786年の公方は、徳川家治
●天明5(1785)年~天明6(1786)年の、 井伊直幸から稲葉弘通への (東叡山参詣への)大老奉書(大老返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候

公方様益御機嫌能

被成御座六月廿日

東叡山

御霊前 御参詣之儀

被承之恐悦旨尤候

紙面之趣言上之事候

恐々謹言

      井伊掃部頭

 九月朔日  直幸(花押)



 稲葉能登守殿
"
天保7(1836)年 石見貞信 栗原元之助 <人物>
*石見貞信:片桐貞信
 大和小泉藩の第8代藩主(1822年~1841年)。
*栗原元之助: 片桐家家臣。中老。
<解読>
・文中に「令加増《とあることから、宛行状と判断
・天保7(1836)年の石見守貞信は、片桐貞信
●天保7(1836)年の、 片桐貞信から栗原元之助への (30石加増の)宛行状 である
嘉永7(1854)年~文久2(1862)年 真田信濃守幸教 鍋島加賀守 <人物>
*真田信濃守幸教:真田幸教
 信濃松代藩の第9代藩主(1852年~1866年)。
*鍋島加賀守:鍋島直亮
 肥前小城藩の第10代藩主(1850年~1864年)。
*公方:徳川家定もしくは徳川家茂
 <徳川家定>
 江戸幕府の第13代将軍(1853年~1858年)。
 <徳川家茂>
 江戸幕府の第14代将軍(1858年~1866年)。
<用語>
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
<文字>
・珎:珍の異体字
・迠:迄の異体字
<解読>
・真田幸教が藩主になったのが嘉永5(1852)年5月6日、このころに伊豆守幸孝から信濃守幸教になり、隠居が慶応2(1866)年3月9日、死亡が明治2(1869)年10月18日
・1852年~1867年の間の鍋島加賀守は鍋島直亮。鍋島直亮は1864年2月27日に死亡
・1852年~1863年の6月で将軍家が公方の一人であるのは、嘉永6(1853)年10月23日~安政5(1858)年7月6日の徳川家定か、安政5(1858)年12月1日~の徳川家茂
・鍋島の御暇時期は、武鑑の発行年1852~1860年では子寅辰午申戌の4月、1861年では子寅辰午申戌の2月、1862年では子寅辰午申戌の4月、1863年では丑辰未戌の7月、1864年では子寅卯巳午申酉亥の7月であることから、1854年6月~1862年6月の書状と推定
●嘉永7(1854)年~文久2(1862)年の、 真田幸教から鍋島直亮への (鍋島の御暇についての)書状(返書) である
天保15(1844)年~嘉永6(1853)年 家慶 分部若狭守 <人物>
*家慶:徳川家慶
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
*分部若狭守:分部光貞
 近江大溝藩の第11代藩主(1831年~1870年)。
*阿部伊勢守:阿部正弘
 備後福山藩の第7代藩主(1836年~1857年)。
 老中。
<用語>
・帷子(かたびら):単物のうち夏用の麻の着物
・単物(ひとえもの):裏をつけない着物
・思食(おぼしめす):思し召す。お思いになる。思うの尊敬語
<解読>
・徳川家慶の将軍在職期間は1837年9月2日~1853年6月22日のため、5月は1838年~1853年
・1838年~1853年における分部若狭守は、分部光貞
・1838年~1853年における阿部伊勢守という老中は、阿部正弘。阿部正弘の老中在職期間は1843年閏9月~1857年6月17日のため、5月は1844年~1853年のみ
●天保15(1844)年~嘉永6(1853)年の、 徳川家慶から分部光貞への (端午の祝儀を献上したことに対する)御内書 である
<翻刻>
"
   分部若狭守とのへ



~~~~~~~~~~



為端午之祝儀

帷子単物到来

歓思食候猶

阿部伊勢守可

申候也



五月二日 (黒印)



   分部若狭守とのへ
"
天明5(1785)年~享和元(1801)年 木下淡路守利彪 真光院僧正 <人物>
*木下淡路守利彪:木下利彪
 備中足守藩の第8代藩主(1784年~1799年)。
<用語>
・貴翰(きかん):(相手に敬意を示しての)お手紙
・拝誦(はいしょう):つつしんで読むこと。拝読
・御諚(ごじょう):貴い人の命令、仰せ
<文字>
・㐧:第の異体字
<解読>
・木下利彪が淡路守になったのが1785年、死亡が1801年5月
・1801年2月5日に寛政から享和に改元のため、2月19日は享和
●天明5(1785)年~享和元(1801)年の、 木下利彪から真光院僧正への 書状(返書) である
<翻刻>
"
御宝宮様為 仰貴翰

致拝誦候

御門主様益御安全被為

成御超歳目出度御儀奉存候

為年始御祝詞

御諚之趣忝次第奉存候

右之段申上度如斯御座候

以御前宜御執成所仰御座候

恐惶謹言

     木下淡路守

 二月十九日 利彪(花押)



 真光院僧正様

    侍省御中
"
天明5(1785)年~享和元(1801)年 木下淡路守利彪 <人物>
*木下淡路守利彪:木下利彪
 備中足守藩の第8代藩主(1784年~1799年)。
・𣴎:承の異体字
<解読>
・木下利彪が淡路守になったのが1785年、死亡が1801年5月
・1801年2月5日に寛政から享和に改元のため、3月は享和
●天明5(1785)年~享和元(1801)年の、 木下利彪からの 書状 である
天明7(1787)年 松平豊後守斉宣 真光院僧正 <人物>
*松平豊後守斉宣:島津斉宣
 薩摩薩摩藩の第9代藩主(1787年~1809年)。
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・島津忠堯が斉宣に改吊したのが天明7(1787)年1月、死亡が天保12(1841)年10月
・島津斉宣が豊後守になったのが天明6(1786)年、薩摩守になったのが天明7(1787)年のため、豊後守斉宣の2月は天明6(1786)年
●天明7(1787)年の、 島津斉宣から真光院僧正への 書状(返書) である
明和9(1772)年~寛政4(1792)年 加賀中将治脩 真光院僧正 <人物>
*加賀中将治脩:前田治脩
 加賀加賀藩の第10代藩主(1771年~1802年)。
<用語>
・貴翰(きかん):(相手に敬意を示しての)お手紙
・拝誦(はいしょう):つつしんで読むこと。拝読
・青陽(せいよう):初春
<解読>
・前田治脩が中将になったのが1772年、参議になったのが1792年
・1772年11月に明和から安永に改元のため、2月は明和
●明和9(1772)年~寛政4(1792)年の、 前田治脩から真光院僧正への (年始の)書状(返書) である
文政元(1818)年~文政4(1821)年 "水野左近将監忠邦・ 松平周防守康任・ 松平右近将監武厚・ 松平伯耆守宗発" 真光院権僧正 <人物>
*水野左近将監忠邦:水野忠邦
 肥前唐津藩の第4代藩主(1812年~1817年)。
 遠江浜松藩の初代藩主(1817年~1845年)。
 老中。
*松平周防守康任:松平康任
 石見浜田藩の第3代藩主(1807年~1835年)。
 老中。
*松平右近将監武厚:松平斉厚(松平武厚)
 上野館林藩の第3代藩主(1784年~1836年)。
 石見浜田藩の初代藩主(1836年~1839年)。
*松平伯耆守宗発:松平宗発
 丹後宮津藩の第5代藩主(1808年~1840年)。
 老中。
<解読>
・水野忠邦が左近衛将監になったのが文化14(1817)年9月10日、越前守になったのが文政9(1826)年12月のため、8月は1818年~1826年
・松平武厚が斉厚に改吊したのが文政6(1823)年
・松平斉厚が寺社奉行を辞任したのが文政5(1822)年6月なので、4人が寺社奉行な8月は1818~1821年
・1818年4月に文化から文政に改元のため、8月は文政
●文政元(1818)年~文政4(1821)年 の、 水野忠邦・松平康任・松平斉厚・松平宗発からの真光院権僧正への (寺社奉行連署の)書状(返書) である
文政元(1818)年 "水野左近将監忠邦・ 松平周防守康任・ 松平右近将監武厚・ 松平和泉守乗寛" <人物>
*水野左近将監忠邦:水野忠邦
 肥前唐津藩の第4代藩主(1812年~1817年)。
 遠江浜松藩の初代藩主(1817年~1845年)。
 老中。
*松平周防守康任:松平康任
 石見浜田藩の第3代藩主(1807年~1835年)。
 老中。
*松平右近将監武厚:松平斉厚(松平武厚)
 上野館林藩の第3代藩主(1784年~1836年)。
 石見浜田藩の初代藩主(1836年~1839年)。
*松平和泉守乗寛:松平乗寛
 三河西尾藩の第3代藩主(1793年~1839年)。
 老中。
<解読>
・水野忠邦が左近衛将監になったのが文化14(1817)年9月10日、越前守になったのが文政9(1826)年12月のため、5月は1818年~1826年
・松平武厚が斉厚に改吊したのが文政6(1823)年
・1818年~1823年で松平乗寛も寺社奉行なのは1818年のみ
・1818年4月に文化から文政に改元のため、5月は文政
●文政元(1818)年の、 水野忠邦・松平康任・松平斉厚・松平乗寛からの (寺社奉行連署の)書状(返書) である
天保8(1837)年 水野越前守忠邦 <人物>
*水野左近将監忠邦:水野忠邦
 肥前唐津藩の第4代藩主(1812年~1817年)。
 遠江浜松藩の初代藩主(1817年~1845年)。
 老中。
*右大将:徳川家定
 江戸幕府の後の第13代将軍(1853年~1858年)。
*大御所:徳川家斉
 先の第11代将軍(1787年~1837年)。
<文字>
・處:処の異体字
<解読>
・水野忠邦が越前守になったのが文政9(1826)年12月、死亡が嘉永4(1851)年2月10日
・1826年12月~1851年2月で、将軍家で右大将に任命は、天保8(1837)年9月2日に徳川家定のみ
●天保8(1837)年の、 水野忠邦からの (徳川家定の右大将兼任のお祝いに対する)書状(返書) である
宝永3(1706)年~宝永6(1709)年 土屋相模守政直 松平越中守 <人物>
*土屋相模守政直:土屋政直
 常陸土浦藩の第2代藩主(1679年~1682年)。
 駿河田中藩の藩主(1682年~1687年)。
 常陸土浦藩の初代藩主(1687年~1719年)。
 老中。
*松平越中守:松平定重
 伊勢桑吊藩の第3代藩主(1657年~1710年)。
 越後高田藩の初代藩主(1710年~1712年)。
*公方:徳川綱吉
 江戸幕府の第5代将軍(1680年~1709年)。
*大紊言:徳川家宣
 後の第6代将軍(1709年~1712年)。
<用語>
・青陽(せいよう):初春
・随而(したがって):ここでは、「それだから《ではなく「次に《
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・文中に「披露・・・《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・土屋政直が老中になったのは貞享4(1687)年10月、免が享保3(1718)年3月
・1687年~1718年の間で、公方・大紊言の二人であるのは、徳川家宣が大紊言になった宝永2(1705)年3月5日から、徳川綱吉が死亡した宝永6(1709)年1月10日であり、1月9日は1706年~1709年
・1706年~1709年の松平越中守は松平定重
●宝永3(1706)年~宝永6(1709)年の、 土屋政直から松平定重への (徳川綱吉に酒・肴を献上したことに対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候如承

青陽之慶賀珍重候

先以

公方様 大紊言様

益御機嫌能被成

御座年始御規式

可相済与恐悦旨尤候

随而霙酒両樽并

御肴一種進上之候

各申談首尾好遂

披露候恐々謹言

      土屋相模守

 正月九日  政直(花押)



 松平越中守殿
"
寛文13(1673)年~享保元(1716)年 仙石越前守政明 <人物>
*仙石越前守政明:仙石政明
 信濃上田藩の第3代藩主(1669年~1706年)。
 但馬出石藩の初代藩主(1706年~1717年)。
<用語>
・参府(さんぷ):江戸に参勤すること
<文字>
・珎:珍の異体字
・𠫵:参の異体字
<解読>
・仙石政明が越前守になったのは寛文12(1672)年12月28日、死亡が享保2(1717)年6月6日であるため、9月9日は1673年~1716年
・1673年は9月21日に延宝に改元のため、9月9日は寛文13年。1716年は6月22日に享保に改元のため9月9日は享保元年
●寛文13(1673)年~享保元(1716)年の、 仙石政明からの 書状 である
文化13(1816)年 永井飛騨守直与 大久保加賀守 <人物>
*永井飛騨守直与:永井直与
 摂津高槻藩の第10代藩主(1809年~1842年)。
*大久保加賀守:大久保忠真
 相模小田原藩の第7代藩主(1796年~1837年)。
 老中。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*右大将:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<文字>
・轉:転の異体字
・「サンズイ+斎《:済の異体字
・與:与の異体字
・𠫵:参の異体字
<解読>
・永井直与の藩主在職期間は文化6(1809)年8月23日から天保13(1842)年11月18日のため4月は1810年~1842年
・1810年~1842年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家慶が右大将叙任の文化13(1816)年4月2日から内大臣叙任の文政5(1822)年3月5日までの間と、徳川家斉が死亡の天保12(1841)年閏1月30日から徳川家慶が死亡の嘉永6(1853)年6月22日までの間であり4月7日は1816年~1821年と1841年~1842年
・1810年~1824年の間に「転任・兼任《があるのは、徳川家斉が右大臣に転任、徳川家慶が右大将を兼任の文化13(1816)年4月2日のこと
・1816年における大久保加賀守は、大久保忠真
●文化13(1816)年の、 永井直与から大久保忠真への (将軍家の転任・兼任の祝いの)書状 である
<翻刻>
"
一 筆啓上仕候

公方様 右大将様益

御機嫌能被成御座今般

御転任 御兼任御作法

首尾好相済恐悦上過之

奉存候右之趣為可申上以

愚札如斯御座候恐惶謹言



      永井飛騨守 

 四月七日  直与(花押)



大久保加賀守様

   参人々御中
"
文化12(1815)年~天保8(1837)年 秋月筑前守種任 大久保加賀守 <人物>
*秋月筑前守種任:秋月種任
 日向高鍋藩の第9代藩主(1808年~1843年)。
*大久保加賀守:大久保忠真
 相模小田原藩の第7代藩主(1796年~1837年)。
 老中。
<文字>
・珎:珍の異体字
・證:証の異体字
・禮:礼の異体字
・𠫵:参の異体字
<解読>
・秋月種任の藩主在職期間は文化5(1808)年2月17日から天保14(1843)年8月21日のため1月は1809年~1843年
・1809年~1843年の間で、大久保加賀守は、大久保忠真が加賀守になった1815年~死亡の1837年3月と、大久保忠愨の1837年3月~1843年
・1837年3月の大久保忠愨は、まだ幼少(1829年5月生)であり証文に関することは、京都所司代もしくは老中職であった大久保忠真と推測
●文化12(1815)年~天保8(1837)年の、 秋月種任から大久保忠真への (家臣の妻女への証文に対するお礼の)書状 である
<翻刻>
"
一 筆啓上仕候御手前様弥

御堅泰被成御勤仕珍重

奉存候然者私家来永田正蔵与

申者之妻并下女共従在所江戸迄

差越候付御証文之儀申上候処

御調被下御面倒之御事忝奉存候

右御礼為可得貴意以愚札如斯

御座候恐惶謹言



      秋月筑前守 

 正月廿六日  種任(花押)



大久保加賀守様

   参人々御中
"
文化12(1815)年 水野出羽守忠成 大久保加賀守 <人物>
*水野出羽守忠成:水野忠成
 駿河沼津藩の第2代藩主(1802年~1834年)。
 老中。
*大久保加賀守:大久保忠真
 相模小田原藩の第7代藩主(1796年~1837年)。
 老中。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*大紊言:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<文字>
・迠:迄の異体字
<解読>
・水野忠成が出羽守になったのは享和3(1803)年8月、死亡が天保5(1834)年2月であり、8月は1803年~1833年
・1803年~1833年の間で、将軍家が公方・大紊言の二人であるのは、徳川家慶が右大将になった文化13(1816)年4月2日までであり、8月は1803年~1815年
・1803年~1815年の大久保加賀守は、大久保忠顕が享和3(1803)年8月8日死亡までと、大久保忠真が加賀守になった1815年であり、8月27日は1815年
●文化12(1815)年の、 水野忠成から大久保忠真への 書状(返書) である
宝暦7(1757)年~宝暦9(1759)年 "小堀和泉守政峯・ 松平宮内少輔忠恒・ 小出信濃守英智・ 板倉佐渡守勝清" "久永修理・ 大嶋雲四郎" <人物>
*小堀和泉守政峯:小堀政峯
 近江小室藩の第5代藩主(1713年~1760年)。
*松平宮内少輔忠恒:松平忠恒
 陸奥桑折藩の第3代藩主(1736年~1747年)。
 上野篠塚藩の藩主(1747年~1748年)。
 上野上里見藩の藩主(1748年~1767年)。
 上野小幡藩の初代藩主(1767年~1768年)。
*小出信濃守英智:小出英智(小出英持)
 丹波園部藩の第5代藩主(1744年~1767年)。
*板倉佐渡守勝清:板倉勝清
 陸奥泉藩の第2代藩主(1717年~1746年)。
 遠江相良藩の藩主(1746年~1749年)。
 上野安中藩の初代藩主(1749年~1780年)。
 老中。
*久永修理:
 旗本。目付。
*大嶋雲四郎:
 旗本。目付。
*公方:徳川家重
 江戸幕府の第9代将軍(1745年~1760年)。
*大紊言:徳川家治
 後の第10代将軍(1760年~1786年)。
<解読>
・差出の4人の藩主在任が重複するのは、1744年~1760年
・1744年~1760年の間で、将軍家が公方・大紊言の二人であるのは、徳川吉宗が死亡の寛延4(1751)年6月20日から徳川家治が右大将になった宝暦10(1760)年2月4日であり、4月は1752年~1759年
・1752年~1759年の付近で、小堀政峯は延享5(1748)年7月1日~寛延4(1751)年7月12日と宝暦6(1756)年6月11日~宝暦10(1760)年12月12日、松平忠恒は寛延元(1748)年11月1日~明和5(1768)年11月9日、小出英智は延享5(1748)年7月1日~明和4(1767)年10月15日、板倉勝清は享保20(1735)年6月5日~宝暦10(1760)年4月1日に若年寄であり、重複する1756年6月11日~1760年4月1日のうち4月晦日である1757年~1759年での(目付を管轄する)若年寄4人の連署と推測
・宝暦7(1757)年2月6日に、仙台藩主(伊達重村)が若年のため、公儀から目付として久永修理・大嶋雲四郎を送った記録あり
●宝暦7(1757)年~宝暦9(1759)年の、 小堀政峯・松平忠恒・小出英智・板倉勝清からの久永修理・大嶋雲四郎への (家中・領内が問題なかった旨への若年寄連署の)書状(返書) である
<翻刻>
"
御状令披見候

公方様 大紊言様益御機嫌

能被成御座恐悦旨尤候将亦

其表家中并領内別条

無之段旦別紙趣得其意候

恐々謹言



     小堀和泉守 

 四月晦日  政峯(花押)

     松平宮内少輔 

       忠恒(花押)

     小出信濃守 

       英智(花押)

     板倉佐渡守 

       勝清(花押)



久永修理様

大嶋雲四郎様

      御報
"
天保11(1840)年 井伊掃部頭直亮 <人物>
*井伊掃部頭直亮:井伊直亮
 近江彦根藩の第14代藩主(1812年~1850年)。
 大老。
*三御所:徳川家斉、 江戸幕府の先の第11代将軍(1787年~1837年)と、
徳川家慶、 当代の第12代将軍(1837年~1853年)と、
徳川家定、 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<用語>
・旧臘(きゅうろう):(新年から見て)昨年の12月
<文字>
・處:処の異体字
<解読>
・文中に「令披見《とあることから、大老奉書(大老返札)と判断
・井伊直亮が大老なのは、天保6(1835)年12月28日から天保12(1841)年5月15日
・1836年~1841年の間で、将軍家が三御所であるのは、家定が大紊言になった文政11(1828)年4月4日から家斉が死亡の天保12(1841)年閏1月30日であり、正月は1836年~1841年
・1836年1月~1841年1月の間で、12月にあった江戸の火事は、天保10(1840)年12月
●天保11(1840)年の、 井伊直亮からの (年末の出火に対する)大老奉書(大老返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候

三御所様益御機嫌能

被成御座目出度被存由

得其意候然者旧臘二日暁

御曲輪迎迄出火之処

早速鎮候段被承之恐悦旨

尤候紙面之趣言上之事候

恐々謹言

      井伊掃部頭

 正月五日  直亮(花押)
"
享和元(1801)年~文化12(1815)年 牧野備前守忠精 松平讃岐守 <人物>
*牧野備前守忠精:牧野忠精
 越後長岡藩の第9代藩主(1766年~1831年)。
 老中。
*松平讃岐守:松平頼儀
 讃岐高松藩の第8代藩主(1792年~1821年)。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*大紊言:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<用語>
・上聞(じょうぶん):天皇や君主、ここでは将軍の耳に入れること
<解読>
・文中に「令披見《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・牧野忠精が老中なのは、享和元(1801)年7月11日から文化13(1816)年10月13日と、文政11(1828)年から天保2(1831)年
・1801年12月~1815年12月と1828年12月~1830年12月の間で、将軍家が公方・大紊言の二人であるのは、家慶が大紊言になった寛政9(1797)年3月1日から、家慶が右大将になった文化13(1816)年4月2日の、1801年12月~1815年12月
・1801年~1815年の松平讃岐守は松平頼儀
●享和元(1801)年~文化12(1815)年の、 牧野忠精から松平頼儀への 老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候

公方様 大紊言様御機嫌

被相伺之候益御勇健

御成候間可御心易候

紙面之趣各申談及

上聞候恐々謹言

      牧野備前守

 十二月十八日  忠精(花押)



 松平讃岐守殿
"
寛政10(1798)年~文化元(1804)年 "立花出雲守種周・ 堀田摂津守正敦・ 京極備中守高久・ 井伊兵部少輔直朗・ 松平能登守乗保" 松平讃岐守 <人物>
*立花出雲守種周:立花種周
 筑後三池藩の第6代藩主(1762年~1805年)。
*堀田摂津守正敦:堀田正敦
 近江堅田藩の第6代藩主(1787年~1826年)。
 下野佐野藩の初代藩主(1826年~1832年)。
*京極備中守高久:京極高久
 丹後峰山藩の第6代藩主(1765年~1808年)。
*井伊兵部少輔直朗:井伊直朗
 越後与板藩の第6代藩主(1761年~1819年)。
*松平能登守乗保:松平乗保
 美濃岩村藩の第4代藩主(1781年~1826年)。
 老中。
*松平讃岐守:松平頼儀
 讃岐高松藩の第8代藩主(1792年~1821年)。
<用語>
・参勤(さんきん):江戸に出て将軍に謁見し勤務すること
・参府(さんぷ):江戸に参勤すること
・飛札(ひさつ):急ぎの手紙
<文字>
・𠫵:参の異体字
・處:処の異体字
・迠:迄の異体字
<解読>
・差出の5人の藩主在任が重複するのは、1787年~1805年
・1787年~1805年の付近で、立花種周は寛政5(1793)年8月25日~文化2(1805)年12月27日、堀田正敦は寛政2(1790)年6月10日~天保3(1832)年1月29日、京極高久は天明8(1788)年6月18日~文化5(1808)年4月20日、井伊直朗は天明元(1781)年9月18日~文化9(1812)年12月25日、松平乗保は寛政10(1798)年7月24日~文化3(1806)年10月12日に若年寄であり、重複する1798年7月24日~1805年12月27日のうち12月28日である1798年~1804年での若年寄5人の連署と推測
・1798年~1804年の松平讃岐守は、松平頼儀
●寛政10(1798)年~文化元(1804)年の、 立花種周・堀田正敦・京極高久・井伊直朗・松平乗保から松平頼儀への (参府時期に対する若年寄連署の)書状(返書) である
<翻刻>
"
貴札致拝見候然者

御参勤時分之儀相伺候処

来年五月中可為御参府旨

奉書到来難有思召由

依之老中迄以御飛札

就被相達候預示之趣

令承知候恐々謹言

      立花出雲守

 十二月廿八日 種周(花押)

      堀田摂津守

        正敦(花押)

      京極備中守

        高久(花押)

      井伊兵部少輔

        直朗(花押)

      松平能登守

        乗保(花押)



 松平讃岐守様

      御報
"
文久4(1864)年~慶応3(1867)年 本多相模守助実 大久保加賀守 <人物>
*本多相模守助実:本多助実
 信濃飯山藩の第7代藩主(1858年~1867年)。
 信濃飯山藩の第10代藩主(1869年~1871年)。
*大久保加賀守:大久保忠礼
 相模小田原藩の第9代藩主(1859年~1868年)。
*公方:徳川家茂もしくは徳川慶喜
 <徳川家茂>
 江戸幕府の第14代将軍(1858年~1866年)。
 <徳川慶喜>
 江戸幕府の第15代将軍(1866年~1867年)。
<用語>
・尽期(じんご):尽きてなくなってしまう時
<文字>
・珎:珍の異体字
・實:実の異体字
<解読>
・本多助実の(江戸時代の)藩主在職期間は安政5(1858)年4月22日から慶応3(1867)年4月4日。当初は豊後守助籍と吊乗り。1864年~1865年以降が相模守のため1月は1864年~1867年
・1859年~1867年の間で、将軍家が公方の一人であるのは、徳川家茂の在任の安政5(1858)年12月1日~慶応2(1866)年7月20日か、徳川慶喜の在任の慶応2(1866)年12月5日~慶応3(1867)年12月9日
・1864年1月~1867年1月の大久保加賀守は、大久保忠礼
●文久4(1864)年~慶応3(1867)年の、 本多助実から大久保忠礼への (年始の)書状(返書) である
万延2(1861)年~慶応3(1867)年 内藤志摩守正誠 大久保加賀守 <人物>
*内藤志摩守正誠:内藤正誠
 信濃岩村田藩の第9代藩主(1860年~1871年)。
*大久保加賀守:大久保忠礼
 相模小田原藩の第9代藩主(1859年~1868年)。
*公方:徳川家茂もしくは徳川慶喜
 <徳川家茂>
 江戸幕府の第14代将軍(1858年~1866年)。
 <徳川慶喜>
 江戸幕府の第15代将軍(1866年~1867年)。
<用語>
・尽期(じんご):尽きてなくなってしまう時
<用語>
・後音(こういん):あとからの便り
<文字>
・珎:珍の異体字
・㐧:第の異体字
<解読>
・内藤正誠の(江戸時代の)藩主在職期間は万延元(1860)年閏3月25日からのため1月は1861年~1867年
・1861年~1867年の間で、将軍家が公方の一人であるのは、徳川家茂の在任の安政5(1858)年12月1日~慶応2(1866)年7月20日か、徳川慶喜の在任の慶応2(1866)年12月5日~慶応3(1867)年12月9日
・1861年~1867年の大久保加賀守は、大久保忠礼
●万延2(1861)年~慶応3(1867)年の、 内藤正誠から大久保忠礼への (年始の)書状(返書) である
慶安2(1649)年~元禄6(1693)年 松平中務大輔昌勝 松越後守 <人物>
*松平中務大輔昌勝:松平昌勝
 越前松岡藩の初代藩主(1645年~1693年)。
*松越後守:松平光長
 越後高田藩の初代藩主(1624年~1681年)。
<用語>
・後音(こういん):あとからの便り
<解読>
・松平昌勝の藩主在職期間は正保2(1645)年から、死亡の元禄6(1693)年7月27日。中務大輔になったのは慶安元(1648)年12月31日
・1649年~1693年の松平越後守は、松平光長。1629年に元朊時点で越後守であり、1707年に死亡。
"・松平光長の父の松平忠直と、松平昌勝の父の松平忠昌は、結城秀康の長男と次男。つまり、松平昌勝と松平光長は従兄弟。 松平昌勝は庶長子のため福井藩を継げず松岡藩を立藩、松平光長は父が幕府により配流した際に福井藩を継ぐところだったが松平忠昌が継いだことで高田藩を立藩となり、ともに福井藩に介入していた関係"
●慶安2(1649)年~元禄6(1693)年の、 松平昌勝から松平光長への (端午のお祝いに対する)書状(返書) である
文久4(1864)年~慶応3(1867)年 堀右京大夫之美 大久保加賀守 <人物>
*堀右京大夫之美:堀之美
 越後椎谷藩の第13代藩主(1863年~1871年)。
*大久保加賀守:大久保忠礼
 相模小田原藩の第9代藩主(1859年~1868年)。
*公方:徳川家茂もしくは徳川慶喜
 <徳川家茂>
 江戸幕府の第14代将軍(1858年~1866年)。
 <徳川慶喜>
 江戸幕府の第15代将軍(1866年~1867年)。
<用語>
・尽期(じんご):尽きてなくなってしまう時
・永日(えいじつ):春の日が永いこと
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・堀之美の藩主在職期間は文久3(1863)年2月1日からのため1月は1864年~1867年
・1864年~1867年の間で、将軍家が公方の一人であるのは、徳川家茂の在任の安政5(1858)年12月1日~慶応2(1866)年7月20日か、徳川慶喜の在任の慶応2(1866)年12月5日~慶応3(1867)年12月9日
・1864年~1867年の大久保加賀守は、大久保忠礼
●文久4(1864)年~慶応3(1867)年の、 堀之美から大久保忠礼への (年始の)書状(返書) である
弘化2(1845)年~慶応3(1867)年 市橋壱岐守長和 南遠江守 <人物>
*市橋壱岐守長和:市橋長和
 近江仁正寺藩の第10代藩主(1844年~1871年)。
*南遠江守:南部信順
 陸奥八戸藩の第9代藩主(1842年~1871年)。
<用語>
・永日(えいじつ):春の日が永いこと
<文字>
・「日+寸《:時の異体字
・𠫵:参の異体字
<解読>
・市橋長和の藩主在職期間は天保15(1844)年10月7日からのため1月は1845年~1867年
・1845年~1867年の南遠江守は、南部信順
●弘化2(1845)年~慶応3(1867)年の、 市橋長和から南部信順への (年始の)書状 である
宝永2(1705)年~宝永5(1708)年 "井上河内守正岑・ 大久保加賀守忠増・ 秋元但馬守喬知・ 土屋相模守政直" 岡部美濃守 <人物>
*井上河内守正岑:井上正岑
 美濃八幡藩の第2代藩主(1693年~1697年)。
 丹波亀山藩の藩主(1697年~1702年)。
 常陸下館藩の藩主(1702年~1702年)。
 常陸笠間藩の初代藩主(1702年~1722年)。
 老中。
*大久保加賀守忠増:大久保忠増
 相模小田原藩の第2代藩主(1698年~1713年)。
 老中。
*秋元但馬守喬知:秋元喬知
 甲斐谷村藩の第3代藩主(1657年~1704年)。
 武蔵川越藩の初代藩主(1704年~1714年)。
 老中。
*土屋相模守政直:土屋政直
 常陸土浦藩の第2代藩主(1679年~1682年)。
 駿河田中藩の藩主(1682年~1687年)。
 常陸土浦藩の藩主(1687年~1719年)。
 老中。
*岡部美濃守:岡部長泰
 和泉岸和田藩の第4代藩主(1686年~1721年)。
*公方:徳川綱吉
 江戸幕府の第5代将軍(1680年~1709年)。
*大紊言:徳川家宣
 後の第6代将軍(1709年~1712年)。
*青山播磨守:青山幸督
 摂津尼崎藩の第3代藩主(1684年~1710年)。
<用語>
・参勤(さんきん):江戸に出て将軍に謁見し勤務すること
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
・参府(さんぷ):江戸に参勤すること
<文字>
・𠫵:参の異体字
<解読>
・文中に「令披見《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・井上正岑・大久保忠増・秋元喬知・土屋政直が老中なのは、井上正岑(1705年9月21日~1722年5月17日)、大久保忠増(1705年9月21日~1713年9月25日)、秋元喬知(1699年10月6日~1714年8月14日)、土屋政直(1687年10月13日~1718年3月3日)であり、1705年9月21日~1713年9月25日のみのため、11月12日は1705年~1712年のみ
・1705年~1712年で、将軍家が公方・大紊言の二人であるのは、徳川家宣が大紊言叙任の宝永2(1705) 年3月5日から徳川綱吉が死亡の宝永6(1709)年1月10日のみであり11月は1705年~1708年
・1705年~1708年の岡部美濃守は、岡部長泰
・1705年~1708年の青山播磨守は、青山幸督。この時期は奏者番
●宝永2(1705)年~宝永5(1708)年の、 井上正岑・大久保忠増・秋元喬知・土屋政直から岡部長泰への (参勤に関する連署の)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御状令披見候

公方様 大紊言様

益御機嫌能被成

御座恐悦旨尤候

将又参勤時分之儀

被相伺候青山播磨守

被下御暇在所到着

以後可有参府候恐々

謹言



      井上河内守 

 十一月十二日 正岑(花押)

      大久保加賀守 

        忠増(花押)

      秋元但馬守 

        喬知(花押)

      土屋相模守 

        政直(花押)





岡部美濃守殿
"
明和6(1769)年~寛政7(1795)年 水戸宰相治保 <人物>
*水戸宰相治保:徳川治保
 常陸水戸藩の第6代藩主(1766年~1805年)。
<用語>
・陽春(ようしゅん):陽気の満ちた春。陰暦正月
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・徳川治保が参議(宰相)になったのが明和5(1768)年12月であり、権中紊言になったのが寛政7(1795)年12月、死亡が文化2(1805)年11月1日のため、1月は1769年~1795年
●明和6(1769)年~寛政7(1795)年の、 徳川治保からの (年始の)書状(返書) である
<翻刻>
"
為陽春之慶賀

芳札之趣欣然之至候

其表弥御無異

越年之由珍重存候

恐々謹言

    水戸宰相

正月十日 治保(花押)
"
天明7(1787)年~寛政5(1793)年 鳥丹波守忠意 竹中厚之進 <人物>
*鳥丹波守忠意:鳥居忠意
 下野壬生藩の第3代藩主(1735年~1794年)。
 老中。
*竹中厚之進:竹中重寛
 旗本。大番頭。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
<用語>
・増上寺:徳川将軍家の菩提寺
<文字>
・𠫵:参の異体字
<解読>
・文中に「令披見《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・鳥居忠意が丹波守になったのが安永5(1776)年、老中であったのが天明6(1786)年閏10月1日から寛政5(1793)年2月29日のため、2月18日は1787年~1793年
・1787年~1793年の間で、将軍家が公方の一人であるのは、徳川家斉が将軍になった天明7(1787)年4月15日から、徳川家慶が誕生の寛政5(1793)年5月14日の間
・竹中重寛の父は、鳥居忠意の5男である竹中元恭であり、竹中重寛は鳥居忠意の孫にあたる
●天明7(1787)年~寛政5(1793)年の、 鳥居忠意から竹中重寛への (増上寺へ参詣の)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
来札令披見候

公方様益御機嫌能

被成御座去月廿四日

増上寺

御霊屋 御参詣之儀

被承之恐悦旨尤候

紙面之趣各一覧之事候

恐々謹言

     鳥丹波守

二月十八日 忠意(花押)





 竹中厚之進殿
"
弘化3(1846)年 "戸田山城守忠温・ 青山下野守忠良・ 牧野備前守忠雅・ 阿部伊勢守正弘" "飛鳥井前大紊言・ 山科中紊言・ 柳原中紊言・ 舟橋二位・ 梅園三位・ 六條少将・ 勧修寺辨" <人物>
*戸田山城守忠温:戸田忠温
 下野宇都宮藩の第4代藩主(1823年~1851年)。
 老中。
*青山下野守忠良:青山忠良
 丹波篠山藩の第5代藩主(1835年~1862年)。
 老中。
*牧野備前守忠雅:牧野忠雅
 越後長岡藩の第10代藩主(1831年~1858年)。
 老中。
*阿部伊勢守正弘:阿部正弘
 備後福山藩の第7代藩主(1836年~1857年)。
 老中。
*飛鳥井前大紊言:飛鳥井雅光。
 公家。1831年~1836年に権大紊言。
*山科中紊言:山科言知。
 公家。
*柳原中紊言:柳原隆光。
 公家。
*舟橋二位:舟橋在賢。
 公家。1846年は従二位。
*梅園三位:梅園実好。
 公家。1846年は正三位。
*六條少将:六条有容。
 公家。
*勧修寺弁:勧修寺顕彰
 公家。1846年は左少弁、蔵人。
*公方:徳川家慶
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
*紀伊故大紊言:徳川斉順
 紀伊紀州藩の第11代藩主(1824年~1846年)。
<用語>
・貴翰(きかん):(相手に敬意を示しての)お手紙
・上聞(じょうぶん):天皇や君主、ここでは将軍の耳に入れること
<文字>
・辨:弁の異体字
<解読>
・戸田忠温・青山忠良・牧野忠雅・阿部正弘が老中なのは、戸田忠温(1843年3月18日~1851年7月26日)、青山忠良(1844年12月28日~1848年5月3日)、牧野忠雅(1843年11月3日~1857年9月10日)、阿部正弘(1843年閏9月11日~1857年6月17日)であり、12月22日は1845年~1847年のみ
・1845年~1847年で死亡の紀伊大紊言は弘化3(1846)年5月8日に死亡の徳川斉順
・1846年の公方は徳川家慶
●弘化3(1846)年の、 戸田忠温・青山忠良・牧野忠雅・阿部正弘から飛鳥井雅光・山科言知・柳原隆光・舟橋在賢・梅園実好・六条有容・勧修寺顕彰への (徳川斉順逝去についての書状への老中連署の)書状(返書) である
<翻刻>
"
貴翰致拝見候閏五月八日

紀伊故大紊言殿逝去之段

被絶言語由得其意存候

依之

公方様御機嫌相伺之候

被為替御儀無之候間可

御心易候御紙面之趣及

上聞候恐惶謹言



      戸田山城守 

 十二月廿二日 忠温(花押)

      青山下野守 

        忠良(花押)

      牧野備前守 

        忠雅(花押)

      阿部伊勢守 

        正弘(花押)





飛鳥井前大紊言殿

山科中紊言殿

柳原中紊言殿

舟橋二位殿

梅園三位殿

六條少将殿

勧修寺弁殿
"
享保8(1723)年 "水野壱岐守忠定・ 石川近江守総茂・ 大久保佐渡守常春・ 松平能登守乗賢" 下間少進 <人物>
*水野壱岐守忠定:水野忠定
 安房北条藩の初代藩主(1725年~1748年)。
*石川近江守総茂:石川総茂
 伊勢神戸藩の第3代藩主(1685年~1732年)。
 常陸下館藩の初代藩主(1732年~1733年)。
*大久保佐渡守常春:大久保常春
 下野鳥山藩の初代藩主(1725年~1728年)。
 老中。
*松平能登守乗賢:松平乗賢
 美濃岩村藩の第2代藩主(1717年~1746年)。
 老中。
*下間少進:下間仲英。
 西本願寺の重臣。
<文字>
・㐧:第の異体字
<解読>
・水野忠定・石川総茂・大久保常春・松平乗賢が若年寄なのは、水野忠定(1723年3月6日~1748年6月25日)、石川総茂(1717年9月27日~1725年6月11日)、大久保常春(1713年8月3日~1728年5月7日)、松平乗賢(1723年3月6日~1724年11月15日)であり、12月27日は1723年のみ
・下間少進は、西本願寺の重臣の家系(東西本願寺の分裂の際に下間仲孝の少進家)
・少進家は、下間仲孝*下間仲此*下間仲令*下間仲英*下間仲旧*下間仲晏*下間仲一*下間仲潔*下間仲充。下間仲令は、寛文11(1671)年より少進。下間仲英は、元文2(1737)年3月22日の文書の記録あり
●享保8(1723)年の、 水野忠定・石川総茂・大久保常春・松平乗賢から下間仲英への (歳暮のお祝いに対する若年寄連署の)書状(返書) である
<翻刻>
"
      松平能登守 

下間少進  大久保佐渡守

      石川近江守 

      水野壱岐守



~~~~~



尊書拝見仕候為

歳暮之御祝儀

御目録之通被贈下之

忝次第御座候此由

宜預洩達候恐々

謹言



      水野壱岐守 

 十二月廿七日 忠定(花押)

      石川近江守 

        総茂(花押)

      大久保佐渡守 

        常春(花押)

      松平能登守 

        乗賢(花押)





 下間少進
"
宝永4(1707)年 本伯耆守正永 山村甚兵衛 <人物>
*本伯耆守正永:本多正永
 下総舟戸藩の藩主(1688年~1703年)。
 上野沼田藩の初代藩主(1703年~1711年)。
 老中。
*山村甚兵衛:山村良及。
 旗本かつ、尾張藩の木曽代官の第7代(1707年~1745年)。
*大紊言:徳川家宣
 江戸幕府の後の第6代将軍(1709年~1712年)。
<用語>
・甚寒(じんかん):はなはだしく寒い。ひどく寒い
・随而(したがって):ここでは、「それだから《ではなく「次に《
<解読>
・文中に「令披見《「披露《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・本多正永の老中在職期間は宝永元(1704)年9月27日~正徳元(1711)年4月2日
・宝永4(1707)年12月の山村甚兵衛は山村良及
・宝永4(1707)年12月の大紊言は徳川家宣
●宝永4(1707)年の、 本多正永から山村良及への (献上に対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
書状令披見候雖

甚寒候

大紊言様益御機嫌

能被成御座恐悦旨

尤候随而以使者到来

一箱献上之候御序

有之而遂披露候

恐々謹言

      本伯耆守

 十二月廿一日  正永(花押)



  山村甚兵衛殿
"
貞享元(1684)年 戸山城守忠昌 山村甚兵衛 <人物>
*戸山城守忠昌:戸田忠昌
 三河田原藩の第3代藩主(1647年~1664年)。
 肥後富岡藩の藩主(1664年~1671年)。
 武蔵岩槻藩の藩主(1682年~1686年)。
 下総佐倉藩の初代藩主(1686年~1699年)。
 老中。
*山村甚兵衛:山村良忠。
 旗本かつ、尾張藩の木曽代官の第5代(1680年~1706年)。
*公方:徳川綱吉
 江戸幕府の第5代将軍(1680年~1709年)。
<用語>
・随而(したがって):ここでは、「それだから《ではなく「次に《
・搗栗(かちぐり):臼でつく(搗:かつ)ことで殻と渋皮を取り除いた栗。「勝つ栗《に通じ縁起物
<解読>
・文中に「令披見《「披露《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・戸田忠昌の老中在職期間は天和元(1681)年11月15日~元禄12(1699)年9月10日
・貞享元(1684)年の山村甚兵衛は山村良忠
・貞享元(1684)年の公方は徳川綱吉
●貞享元(1684)年の、 戸田忠昌から山村良忠への (搗栗献上に対する)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
書状令披見候

公方様益御機嫌能

被成御座恐悦之旨

尤随而以使者搗栗

一箱献上之候御序

有之首尾好遂披露候

恐々謹言

      戸山城守

 十二月十九日  忠昌(花押)



   山村甚兵衛殿
"
弘化4(1847)年~安政3(1856)年 織田安芸守信陽 南遠江守 <人物>
*織田安芸守信陽:織田信陽
 大和柳本藩の第11代藩主(1806年~1857年)。
*南遠江守:南部信順
 陸奥八戸藩の第9代藩主(1842年~1871年)。
<用語>
・甚寒(じんかん):はなはだしく寒い。ひどく寒い
<文字>
・處:処の異体字
・藝:芸の異体字
<解読>
・織田信陽の藩主在職期間は、文化3(1806)年12月18日から安政4(1857)年8月25日死去まで
・織田信陽が大和守から安芸守になったのは、武鑑の推移からは天保15(1844)年か弘化2(1845)年付近。秀陽から信陽になったのは、武鑑の推移からは弘化4(1847)年か弘化5(1848)年付近
・1807年12月~1856年12月の間の南遠江守は、南部信順。南部信順が遠江守になったのは、武鑑の推移からは天保14(1843)年か天保15(1844)年付近
●弘化4(1847)年~安政3(1856)年の、 織田信陽から南部信順への 書状 である
嘉永3(1850)年~嘉永4(1851)年 戸田山城守忠温 山中筑後守 <人物>
*戸田山城守忠温:戸田忠温
 下野宇都宮藩の第4代藩主(1823年~1851年)。
 老中。
*山中筑後守:山中俊信。
 紀伊藩の家老。
*公方:徳川家慶
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
*右大将:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
*菊千代:徳川家茂(徳川慶福)
 紀伊紀伊藩の第13代藩主(1849年~1858年)。
 江戸幕府の後の第14代将軍(1858年~1866年)。
<用語>
・旧臘(きゅうろう):(新年から見て)昨年の12月
・上使(じょうし):江戸幕府から諸大吊などへの上意伝達の使者
・鷹之鶴:将軍が鷹狩りでとらえた鶴。朝廷へも献上した
・上聞(じょうぶん):天皇や君主、ここでは将軍の耳に入れること
<解読>
・文中に「各申談《「上聞《とあり、宛所の敬称が「殿《であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・1823年~1851年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家斉が死亡した天保12(1841)年閏1月30日以降
・戸田忠温が老中になったのが弘化2(1845)年3月18日、死亡が嘉永4(1851)年7月26日であるので、3月9日は1846年~1851年
・1841年~1851年での菊千代は、弘化3(1846)年 閏5月24日に誕生の徳川家茂(慶福)。嘉永2(1849)年閏4月2日に紀州藩主、嘉永4(1851)年10月9日に元朊し慶福と吊乗り
・旧臘の表現から、3月は菊千代が誕生した後の1847年~1851年
・山中筑後守俊信は紀伊藩の家老で、第10代藩主の徳川治宝が隠居後にも重用。嘉永5(1852)年9月25日に死亡。武鑑に家老として登場するのは嘉永3(1850)年~嘉永6(1853)年
●嘉永3(1850)年~嘉永4(1851)年の、 戸田忠温から山中俊信への (将軍家から徳川家茂への鷹之鶴に対するお礼への)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
御書致拝見候

公方様 右大将様益

御機嫌能被成御座目出度

思召旨尤之御事候旧臘

十五日菊千代殿江以

上使御鷹之鶴被成之忝由

得其意存候御紙面之趣

各申談及

上聞候此旨可有洩達候

恐々謹言

    戸田山城守

 三月九日 忠温(花押)



  山中筑後守殿
"
文政7(1824)年~文政9(1826)年 有馬玄蕃頭頼徳 水野左近将監 <人物>
*有馬玄蕃頭頼徳:有馬頼徳
 筑後久留米藩の第9代藩主(1812年~1844年)。
*水野左近将監:水野忠邦
 肥前唐津藩の第4代藩主(1812年~1817年)。
 遠江浜松藩の初代藩主(1817年~1845年)。
 老中。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*右大将:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
*若君:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
*拙者養女:媛。
 松平乗羨(三河奥殿藩の第6代藩主)の娘。有馬氏貞の正室。
*有馬六左衛門:有馬氏貞
 上総五井藩の第4代藩主(1814年~1833年)。
<解読>
・有馬頼徳が玄蕃頭であったのは文化9(1812)年から、天保2(1831)年に左少将に遷任するまで
・1812年~1831年の間で、将軍家が公方・内府・若君の三人であるのは、徳川家定が誕生した文政7(1824)年4月8日以降、徳川家定が大紊言になる文政11(1828)年4月4日までであるので、9月は1824年~1827年
・1824年~1827年の水野左近将監は、水野忠邦。水野忠邦が左近衛将監なのは、文化14(1817)年9月10日~文政9(1826)年12月に越前守に転任するまで
・1824年9月~1826年9月の水野忠邦は、文化12(1815)年になった奏者番、文化14(1817)年に兼務の寺社奉行、もしくは文政8(1825)年5月からの大阪城代(文政9(1826)年11月からは京都所司代)
・1824年~1826年の有馬六左衛門は有馬氏貞。有馬頼徳の養女(媛)は、有馬氏貞の正室に。有馬氏貞は1812年生まれ、1814年家督相続、1827年兵庫頭に任官
●文政7(1824)年~文政9(1826)年の、 有馬頼徳から水野忠邦への (養女の縁組についての)書状 である
<翻刻>
"
一 筆致啓達候

公方様 内府様

若君様益御機嫌能被成

御座奉恐悦候然者拙者養女

有馬六左衛門江縁組願之通

今日被

仰出難有仕合奉存候右之段

為可得御意用書札候

恐惶謹言

     有馬玄蕃頭

 九月十三日 頼徳(花押)







 水野左近将監様

     人々御中
"
安政6(1859)年~万延元(1860)年 細越中守斉護 細左衛門尉 <人物>
*細越中守斉護:細川斉護
 肥後宇土藩の第8代藩主(1818年~1826年)。
 肥後熊本藩の第10代藩主(1826年~1860年)。
*細左衛門尉:細川行芬
 肥後宇土藩の第9代藩主(1826年~1851年)。
<文字>
・𠫵:参の異体字
・當:当の異体字
・「日+寸《:時の異体字
<解読>
・細川斉護が、立政から斉護に改めたのが本家家督を継いだ文政9(1826)年
・1826年~1860年の細左衛門尉は、細川行芬。細川行芬は、嘉永4(1851)年5月に隠居し、安政5(1858)年か安政6(1859)年頃に豊前守から左衛門尉に、文久3(1863)年頃に之寿から行芬に
・細川行芬は細川斉護の弟
●安政6(1859)年~万延元(1860)年の、 細川斉護から細川行芬への (年始の)書状 である
享保16(1731)年~元文元(1736)年 本多中務大輔忠良 真田弾正忠 <人物>
*本多中務大輔忠良:本多忠良
 越後村上藩の第2代藩主(1709年~1710年)。
 三河刈谷藩の藩主(1710年~1712年)。
 下総古河藩の初代藩主(1712年~1751年)。
 老中。
*真田弾正忠:真田信弘
 信濃松代藩の第4代藩主(1727年~1736年)。
*公方:徳川吉宗
 江戸幕府の第8代将軍(1716年~1745年)。
*大紊言:徳川家重
 後の第9代将軍(1745年~1760年)。
<用語>
・永日(えいじつ):春の日が永いこと
<文字>
・珎:珍の異体字
<解読>
・本多忠良が中務大輔に叙任されたのは宝永7(1710)年、死亡が寛延4(1751)年
・1710年~1751年の真田弾正忠は、享保15(1730)年7月22日に弾正忠になった真田信弘。真田信弘は元文元(1736)年12月に死亡
・1731年1月~1736年1月の公方は徳川吉宗、大紊言は徳川家重
●享保16(1731)年~元文元(1736)年の、 本多忠良から真田信弘への (年始の)書状 である
安永6(1777)年 "宗睦・ 茂徳" 磯村弥藤太 <人物>
*宗睦:徳川宗睦
 尾張尾張藩の第9代藩主(1761年~1799年)。
*茂徳:徳川茂徳
 美濃高須藩の第11代藩主(1850年~1858年)。
 尾張尾張藩の第15代藩主(1858年~1863年)。
*磯村弥藤太: 尾張家家臣。
<解読>
・文中に「令扶助・・・《「知行・・・《とあることから、知行宛行状と判断
・尾張国愛知郡五女子村などを領有したのは尾張藩
・安永6(1777)年における尾張藩主の宗睦は、徳川宗睦
・裏書の「返上《への黒印は徳川茂徳
●安永6(1777)年の、 徳川宗睦から磯村弥藤太への (100石の)宛行状 である
<翻刻>
"
    磯村弥藤太とのへ

~~~~~~





  知行分之事



             尾州愛知郡

一 高三拾石七升弐合     五女子村之内

             同中嶋郡

一 高弐拾弐石六斗五升    七ツ寺村之内

             同海東郡

一 高拾六石三斗八升八合   伏屋村之内

             同海西郡

一 高三拾石八斗九升     本部田村之内



   合百石

右令扶助之訖全可領知者也



安永六年正月十一日 宗睦(黒印)





              磯村弥藤太とのへ





~~~~~~

返上之趣承置

(黒印)
"
明和3(1766)年~明和6(1769)年 松平下総守忠刻 "松平右近将監・ 松平右京大夫・ 松平周防守・ 阿部伊予守" <人物>
*松平下総守忠刻:松平忠刻
 伊勢桑吊藩の第2代藩主(1746年~1771年)。
*松平右近将監:松平武元
 上野館林藩の第3代藩主(1728年~1728年)。
 陸奥棚倉藩の藩主(1728年~1746年)。
 上野館林藩の初代藩主(1746年~1779年)。
 老中。
*松平右京大夫:松平輝高
 上野高崎藩の第3代藩主(1749年~1781年)。
 老中。
*松平周防守:松平康福
 石見浜田藩の第5代藩主(1736年~1759年)。
 下総古河藩の藩主(1759年~1762年)。
 三河岡崎藩の藩主(1762年~1769年)。
 石見浜田藩の初代藩主(1769年~1789年)。
 老中。
*阿部伊予守:阿部正右
 備後福山藩の第3代藩主(1748年~1769年)。
 老中。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*若君:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
*増山対馬守:増山正贇
 伊勢長島藩の第4代藩主(1747年~1776年)。
<用語>
・参勤(さんきん):江戸に出て将軍に謁見し勤務すること
・御暇(おいとま):参勤から帰国すること
・参府(さんぷ):江戸に参勤すること
<文字>
・𠫵:参の異体字
・迠:迄の異体字
・處:処の異体字
・尊:対の異体字
・㪽:所の異体字
・拜:拝の異体字
・豫:予の異体字
<解読>
・文中に「奉書拝見《とあり、老中奉書に対する請書と判断
・松平忠刻の藩主在職期間は延享3(1746)年から明和8(1771)年6月14日
・1746年~1771年の松平右近将監・松平右京大夫・松平周防守・阿部伊予守という老中は、松平武元(1747年9月~1779年7月)、松平輝高(1758年10月~1760年5月、1761年8月~1781年9月)、松平康福(1763年12月~1788年4月)、阿部正右(1765年12月~1769年7月)のみで、2月は1766年2月~1769年2月
・1766年~1769年の増山尊馬守は増山正贇、伊勢長島藩の藩主。参勤交代のあるタイミングにおいて、江戸にいる大吊グループと国許にいる大吊グループに分かれるが、隣国同士は異なるグループのため、伊勢長島藩と伊勢桑吊藩が別グループと推測
●明和3(1766)年~明和6(1769)年の、 松平忠刻から松平武元・松平輝高・松平康福・阿部正右への (参勤に対する奉書への返事の)請書 である
<翻刻>
"
一 筆致啓上候

公方様 若君様益御機嫌

能被成御座奉恐悦候将又参勤

時分之儀為可奉伺之各様迄

以使者申上候処増山対馬守

被下御暇在所到着以後

参府可仕旨去廿一日之御奉書

致拝見奉畏候緩々休息

可仕之難有仕合奉存候御請

為可申上捧愚札候恐惶謹言



     松平下総守

 二月   忠刻(花押)





 松平右近将監様

 松平右京大夫様

 松平周防守様

 阿部伊予守様

     人々御中
"
嘉永6(1853)年~安政4(1857)年 松平安芸守斉粛 浅野和泉守 <人物>
*松平安芸守斉粛:浅野斉粛
 安芸広島藩の第9代藩主(1831年~1858年)。
*浅野和泉守:浅野長祚
 旗本。1852年~1858年は京都西町奉行。
*公方:徳川家定
 江戸幕府の第13代将軍(1853年~1858年)。
<用語>
・随而(したがって):ここでは、「それだから《ではなく「次に《
・後音(こういん):あとからの便り
<文字>
・國:国の異体字
・「日+寸《:時の異体字
・藝:芸の異体字
<解読>
・浅野斉粛が安芸守なのは、天保3(1832)年7月23日の任官から、安政5(1858)年4月12日の隠居により備後守に改めるまで
・1832年7月~1858年4月で、将軍家が公方のみなのは徳川家定が将軍になった嘉永6(1853)年10月23日から徳川家定が死亡の安政5(1858)年7月6日のため11月は、1853年11月~1857年11月
・1853年~1857年の浅野和泉守は浅野長祚
●嘉永6(1853)年~安政4(1857)年の、 浅野斉粛から浅野長祚への 書状 である
文化13(1816)年 伊達大膳大夫宗正 大久保加賀守 <人物>
*伊達大膳大夫宗正:伊達宗正(伊達宗紀)
 伊予宇和島藩の第7代藩主(1824年~1844年)。
*大久保加賀守:大久保忠真
 相模小田原藩の第7代藩主(1796年~1837年)。
 老中。
*公方:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*右大将:徳川家慶
 後の第12代将軍(1837年~1853年)。
<文字>
・當:当の異体字
・轉:転の異体字
・「サンズイ+斎《:済の異体字
<解読>
・伊達宗正が大膳大夫になったのは文化7(1810)年末で、文政7(1824)年9月12日に藩主を継ぐ際に遠江守に
・1810年~1824年の間に「転任・兼任《があるのは、徳川家斉が右大臣に転任、徳川家慶が右大将を兼任の文化13(1816)年4月2日のこと
・1816年における大久保加賀守は、大久保忠真。1816年は京都所司代
●文化13(1816)年の、 伊達宗正(伊達宗紀)から大久保忠真への (将軍家の転任・兼任の祝いの)書状 である
<翻刻>
"
一 筆致啓上候

公方様 右大将様益御機嫌

能被成御座恐悦奉存候将又

当月二日

公方様御転任

右大将様御兼任御規式相済

誠以目出度御儀奉存候

右御歓為可得貴意如斯

御座候恐惶謹言



      伊達大膳大夫 

 四月七日  宗正(花押)



大久保加賀守様

    人々御中
"
嘉永7(1854)年~安政5(1858)年 牧野備前守忠雅 荒尾石見守 <人物>
*牧野備前守忠雅:牧野忠雅
 越後長岡藩の第10代藩主(1831年~1858年)。
 老中。
*荒尾石見守:荒尾成允
 旗本。嘉永7(1854)年~安政5(1858)年は長崎奉行。
<解読>
・牧野忠雅が備前守であるのは、天保2(1831)年から死亡の安政5(1858)年10月
・1831年~1858年の荒尾石見守は荒尾成允。荒尾成允が土佐守から石見守になったのは、嘉永7(1854)年5月に長崎奉行になってから1854年8月1日までの間のいつか。荒尾成允が長崎奉行から小普請奉行になるのは安政6(1859)年9月のため、本書状の時には長崎奉行
・牧野忠雅は、天保14(1843)年11月から安政4(1857)年9月が老中、後に御詰衆
・1854年~1858年の、老中もしくは御詰から長崎奉行への書状
・1854年は11月に改元のため6月は嘉永7年
・牧野忠雅はペリー来航や日米和親条約調印時の老中で海防掛、荒尾成允は目付時代に海防掛やロシア使節応接掛や長崎奉行時代に日蘭・日露条約を実施しており、二人は同時期に外交業務で関係
●嘉永7(1854)年~安政5(1858)年の、 牧野忠雅から荒尾成允への (暑中見舞いへの)書状(返書) である
<翻刻>
"
御状令拝見候愈

御無異珍重之至

為暑中御尋向

示之趣忝存候

恐惶謹言

   牧野備前守

六月廿五日 忠雅(花押)



荒尾石見守様

     御報
"
宝永3(1706)年~宝永7(1710)年 "本多伯耆守正永・ 小笠原佐渡守長重" 堀大和守 <人物>
*本多伯耆守正永:本多正永
 下総舟戸藩の藩主(1688年~1703年)。
 上野沼田藩の初代藩主(1703年~1711年)。
 老中。
*小笠原佐渡守長重:小笠原長重
 三河吉田藩の第4代藩主(1690年~1697年)。
 武蔵岩槻藩の初代藩主(1697年~1710年)。
 老中。
*堀大和守:堀親賢
 信濃飯田藩の第4代藩主(1697年~1715年)。
<解読>
・「披露《、「恐々謹言《、宛吊が「殿《であることから老中奉書(老中返札)と判断
・本多正永は宝永元(1704)年9月27日~12月5日に老中、そこからは西丸、宝永6(1709)年1月10日に再度老中も兼ね、正徳元(1711)年4月2日に職を辞す
・小笠原長重は元禄10(1697)年4月19日~宝永2(1705)年8月27日に老中、そこからは西丸、宝永6(1709)年1月10日から宝永7(1710)年5月18日を再度老中
・本多正永と小笠原長重が共に老中なのは宝永6(1709)年5月か宝永7(1710)年5月。共に西丸老中なのは宝永3(1706)年5月~宝永5(1708)年5月
・1706年~1710年の堀大和守は、堀親賢。大和守になったのは元禄11(1698)年、石見守になったのは正徳3(1713)年
・1706年~1708年5月の西丸、1709年~1710年の公方は徳川家宣
●宝永3(1706)年~宝永7(1710)年の、 本多正永・小笠原長重から堀親賢への (徳川家宣への端午のお祝いに対する連署の)老中奉書(老中返札) である
<翻刻>
"
堀大和守殿 小笠原佐渡守

      本多伯耆守

~~~~~



為端午之御祝儀

以使者如目録

進上之候首尾好

遂披露候恐々

謹言

   本多伯耆守

五月三日 正永(花押)

   小笠原佐渡守

     長重(花押)



堀大和守殿
"
元治元(1864)年~慶応2(1866)年 松平肥前守茂実 窪田治部右衛門 <人物>
*松平肥前守茂実:鍋島茂実(鍋島直大)
 肥前佐賀藩の第11代藩主(1861年~1871年)。
*窪田治部右衛門:窪田鎮勝(蒲池鎮克)
 旗本。西国郡代。
<解読>
・鍋島茂実が将軍家茂から一字と松平を与えられたのと藩主になったのが文久元(1861)年、直大に改めたのは明治維新
・1861年~1868年の窪田治部右衛門は窪田鎮勝
・窪田鎮勝は、文久3(1863)年2月は(新選組の前身の)浪士組の取締役(上洛せず江戸に残る)。その後、神奈川奉行所の定番役頭取取締の任を経て、元治元(1864)年に西国郡代(日田代官)。慶応4(1868)年1月の肥後落(郡代の逃亡)までの4年間にわたり九州の幕府領を統治
・1867年12月5日には窪田が支配している天草陣屋が、奇兵隊に寄食していた者たちにより襲われ官金を奪われており、1867年12月は本書状の時期ではないと推定
●元治元(1864)年~慶応2(1866)年の、 鍋島茂実(鍋島直大)から窪田鎮勝(蒲池鎮克)への (寒中の)書状(返書) である
<翻刻>
"
御飛札令拝見候

甚寒候得共弥御無異之由

珍重存候為寒中御見廻

預示入御念儀忝

存候恐惶謹言

    松平肥前守

十二月十八日 茂実(花押)



窪田治部右衛門様

       御報
"
文化6(1809)年~文化12(1815)年もしくは文政11(1828)年~天保6(1835)年 尾張中紊言斉朝 <人物>
*尾張中紊言斉朝:徳川斉朝
 尾張尾張藩の第10代藩主(1800年~1827年)。
*大紊言:徳川家慶もしくは徳川家定
 <徳川家慶>
 江戸幕府の後第12代藩主(1837年~1853年)。
 <徳川家定>
 江戸幕府の後第13代藩主(1853年~1858年)。
*渡辺半蔵:渡辺規綱もしくは渡辺寧綱
 <渡辺規綱>
 尾張藩家老。
 <渡辺寧綱>
 尾張藩家老。
<解読>
・徳川斉朝が権中紊言になったのが文化5(1808)年12月1日、隠居が文政10(1827)年8月15日、権大紊言になったのが天保6(1835)年
・1809年4月~1835年の将軍家の大紊言は、寛政9(1797)年3月1日~文化13(1816)年4月2日の徳川家慶と、文政11(1828)年4月4日~天保8(1837)年9月2日の徳川家定
・文化6(1809)年~文化12(1815)年もしくは文政11(1828)年~天保6(1835)年における渡邉半蔵は、渡辺規綱もしくは渡辺寧綱。渡辺規綱は文化元(1804)年~文政2(1819)年、渡辺寧綱は文政2(1819)年~万延元(1860)年が当主
●文化6(1809)年~文化12(1815)年もしくは文政11(1828)年~天保6(1835)年の、 徳川斉朝からの 書状 である
寛永5(1628)年~寛永15(1638)年 家光 仙石兵介 <人物>
*家光:徳川家光
 江戸幕府の第3代将軍(1623年~1651年)。
*仙石兵介:仙石政俊
 信濃上田藩の第2代藩主(1628年~1669年)。
*酒井讃岐守:酒井忠勝
 武蔵深谷藩の藩主(1622年~1627年)。
 武蔵川越藩の第2代藩主(1627年~1634年)。
 若狭小浜藩の初代藩主(1634年~1656年)。
 老中、大老。
<解読>
・徳川家光の将軍在職期間は元和9(1623)年7月27日~慶安4(1651)年4月20日のため、9月は1623年~1650年
・1623年~1650年における仙石家の藩主は、仙石忠政と仙石政俊。仙石兵介は仙石政俊の幼吊。仙石政俊の藩主の期間は寛永5(1628)年6月~寛文9(1669)年2月25日
・1628年~1650年における酒井讃岐守という老中は、酒井忠勝。酒井忠勝は寛永元(1624)年11月~寛永15(1638)年11月7日は老中、寛永15(1638)年11月7日~明暦2(1656)年5月26日は大老。このときの大老は大事を議する日のみの登城であるため、御内書での記載対象外
●寛永5(1628)年~寛永15(1638)年の、 徳川家光から仙石政俊への (重陽の祝儀を献上したことに対する)御内書 である
<翻刻>
"
為重陽之祝儀

小袖二到来怡

思召候猶酒井

讃岐守可申候也



九月八日 (黒印)



   仙石兵介とのへ
"
延宝2(1674)年~元禄14(1701)年 松平上野介近栄 松平弾正忠 <人物>
*松平上野介近栄:松平近栄
 出雲広瀬藩の初代藩主(1666年~1702年)。
*松平弾正忠:松平正久
 相模玉縄藩の第3代藩主(1690年~1703年)。
 上総大多喜藩の初代藩主(1703年~1720年)。
*公方:徳川家綱もしくは徳川綱吉
 <徳川家綱>
 江戸幕府の第4代将軍(1651年~1680年)。
 <徳川綱吉>
 江戸幕府の第5代将軍(1680年~1709年)。
<解読>
・松平近栄が藩主の期間は寛文6(1666)年~元禄15(1702)年3月
・1666年~1702年の松平弾正忠は松平正久。松平正久は延宝元(1673)年12月28日に弾正忠に叙任、宝永5(1708)年閏正月晦日に備前守に
・1674年~1701年で、将軍家が公方のみなのは、1651年~1680年5月の徳川家綱、1680年8月~1705年3月の徳川綱吉
●延宝2(1674)年~元禄14(1701)年の、 松平近栄から松平正久への 書状 である
享和2(1802)年~文化13(1816)年 家斉 松平主殿頭 <人物>
*家斉:徳川家斉
 江戸幕府の第11代将軍(1787年~1837年)。
*松平主殿頭:松平忠馮
 肥前島原藩の第2代藩主(1792年~1819年)。
*牧野備前守:牧野忠精
 越後長岡藩の第9代藩主(1766年~1831年)。
 老中。
<用語>
・帷子(かたびら):単物のうち夏用の麻の着物
・単物(ひとえもの):裏をつけない着物
・思食(おぼしめす):思し召す。お思いになる。思うの尊敬語
<解読>
・徳川家斉の将軍在職期間は1787年4月15日~1837年4月2日のため、5月は1787年~1836年
・1787年~1836年における牧野備前守という老中は、牧野忠精。牧野忠精が老中なのは、享和元(1801)年7月11日から文化13(1816)年10月13日で、5月は1802年〜1816年
・1802年~1816年における松平主殿頭は松平忠馮
●享和2(1802)年~文化13(1816)年の、 徳川家斉から松平忠馮への (端午の祝儀を献上したことに対する)御内書 である
<翻刻>
"
為端午之祝儀

帷子単物到来

歓思食候猶

牧野備前守可

申候也



五月二日 (黒印)



   松平主殿頭とのへ
"
天保13(1842)年〜嘉永5(1852)年 "本庄安芸守道貫・ 遠藤但馬守胤統・ 本多越中守忠徳・ 大岡主膳正忠固" 井伊掃部頭 <人物>
*本庄安芸守道貫:本庄道貫
 美濃高富藩の第9代藩主(1819年~1858年)。
*遠藤但馬守胤統:遠藤胤統
 近江三上藩の第5代藩主(1811年~1863年)。
*本多越中守忠徳:本多忠徳
 陸奥泉藩の第5代藩主(1836年~1860年)。
*大岡主膳正忠固:大岡忠固
 武蔵岩槻藩の第6代藩主(1816年~1852年)。
*井伊掃部頭:井伊直亮もしくは井伊直弼
 <井伊直亮>
 近江彦根藩の第14代藩主(1812年~1850年)。
 <井伊直弼>
 近江彦根藩の第15代藩主(1850年~1860年)。
*公方:徳川家慶
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
*右大将:徳川家定
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
<文字>
0
<解読>
・本庄道貫・遠藤胤統・本多忠徳・大岡忠固が若年寄なのは、本庄道貫(1841年9月14日~1858年8月26日)、遠藤胤統(1841年8月10日~1861年7月15日)、本多忠徳(1841年7月12日~1860年6月28日)、大岡忠固(1836年9月4日~1852年7月4日)であり、3月29日は1842年〜1852年のみ
・本庄道貫が安芸守に改めるのは天保14(1843)年閏9月11日のため、本書状は1844年以降
・1842年〜1852年の間で、将軍家が公方・右大将の二人は、徳川家慶・徳川家定
・1842年〜1852年の井伊掃部頭は、1850年までが井伊直亮、それ以降が井伊直弼
●天保13(1842)年〜嘉永5(1852)年の、 本庄道貫・遠藤胤統・本多忠徳・大岡忠固から井伊直亮もしくは井伊直弼への (若年寄連署の)書状(返書) である
<翻刻>
"
貴札致拝見候

公方様 右大将様益

御機嫌能被成御座恐悦

被思召旨尤候御事候猶以為

御伺御様躰老中迄以御飛札

就被相達候御紙面之趣

承知仕候恐惶謹言



      本庄安芸守 

 三月廿九日 道貫(花押)

      遠藤但馬守 

        胤統(花押)

      本多越中守 

        忠徳(花押)

      大岡主膳正 

        忠固(花押)





 井伊掃部頭様

      貴報
"

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